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心のノートって何?
「心のノート」心に教科書は必要か
  〜大人の私だってグレたくなってしまう〜
なぜ、心の中まで支配しようとするのか?
「心のノート」わたしはこう思う
「心のノート」市販先



「心のノート」って何?

 みなさんは『心のノート』というものをご存知でしょうか。
 文部科学省が2002年4月から、国公立・私立を問わず全ての小・中学生に配布しはじめた道徳の副教材です。教科書予算が削減される中で、「心のノート」には7億3000万円もの予算が割かれました。2003年度予算案にも3億円がつけられており、文科省は本気でこのノートの利用を徹底しようとしています。
 国がこうした副教材を作り、全国一律に配布するのは戦後はじめてのことであり、まるで「国定教科書」ででもあるかのようです。
 ただの副教材のはずなのに、文科省はノートを使用して授業を行えという趣旨の指導書を各教育委員会に送りつけ、使用状況も調べはじめています。「強制しない」と言いながら、「調査」を通して全国一律に強制しようとする。まさに、「国旗・国歌法」と同じやり方です。
 変な感じ、やな感じ。『心のノート』とは一体どういうものなのでしょう。

 『心のノート』は、小学校低・中・高学年用と中学生用の4種類があり、どれもパステル調の色合いで、ぱっと見ると楽しそうな感じがしますが・・・。
 内容は、全種類とも4章で構成されています。
 1章は、自分自身について。向上心を持て。輝く自分になろう。努力ってすばらしいなどとうたいます。
 2章は他人とのかかわり。友だちをたくさん作り、お互いに認め合っていかなければならないと教えてきます。
 3章は自然や命とのかかわり。自然を大切にし、命の大切さを伝える章です。
 そして4章は最もページを割いている章で、集団や社会とのかかわり。約束、きまり、法を守る。学校はすてきなところ。みんなのために生き、家族も大切にし、故郷や日本の文化は尊重しなくてはならないそうですよ。
 中央教育審議会の出した、教育基本法の「見直し」内容に似ていませんか? 『心のノート』はまさに、教育基本法「改正」の先駆的役割を果たすものでしょう。

 この、善ばかりを取り上げたノート。一見もっともなようなことが書かれてはいるのですが、何かひっかかりませんか?「どこから読んでもよく、正解もない」と言ってはいます。でも、「望まれるような答えを出すように」と言われているような気がします。
 子どもたちは手にとってどう思うのでしょうか。特に、今自分が輝いていないと思っている子どもたち、向上心を持ちたくとも自信が持てずにいる子どもたちは。自己否定をし、自分を縛り、どんどん自分を追い込んでしまうのではないのかなあ。僕が小さいときにこのノートを受け取っていたのなら、きっとこのノートの望むような子どもになろうと努力し、それでもなれなくて自己嫌悪に陥ってしまったと思います。
 道徳とはそもそも学校で教えられるようなものではありません。しかし文科省は教えねばならないものと捉えているようです。「日本の将来を案じているからこそ、私たちは子どもたちにこのノートを使ってもらい、道徳を学んでもらおうと思っているのですよ」と文科省のお偉いさんがニコニコ説明する姿が目に浮かんできます。
 でも日本の将来を案じるのであれば、子どもたちを取り巻く環境を変えることからはじめるべきではないでしょうか。子どもたちが向上心を持てるような社会を大人が作る。大人が自然や生命を大切にし、他人を認める。子どもたちに、学校や故郷、日本っていいなと思ってもらえるような国づくりを、まずは大人がしていかなくてはならないのではないでしょうか。
 そうしたことを一つもせずに、『心のノート』を使って道徳教育を行えと指導したところで、一体何が変わるのでしょう。ニコニコ顔の心の内、いったい何が隠れているのでしょう。

(中村 元彦)
「BOOKS 少年司法・身びいき書評」(『メールマガジン月刊「少年問題」通巻5号(発行日2002年8月5日)』)より、大幅に補筆・修正したもの。
メールマガジン月刊「少年問題」を希望する方は、少年問題ネットワークまで。



心に教科書は必要か

大人の私だってグレたくなってしまう
東本 久子(子どもと教科書全国ネット21 常任運営委員/保護司)

はじめに

 今年の3月末に、文部科学省は道徳副教材『心のノート』を全国全ての小、中学校に配布しました。小学校低学年用・中学年用・高学年用、中学校用の4種類が作られています。『心のノート』は、文科省が編集・著作し、文溪堂、学習研究社、大阪書籍、暁教育図書の民間出版社4社が発行しました。
 当初、文部省は4年計画で、小学校低学年から順次発行する予定で、1億9,000万円予算を計上していましたが、それが、いつの間にか8億6,000万円の予算がついて、4種類を一度に発刊することになったようです。

『心のノート』が出てきた背景

 『心のノート』の目的を、文科省の初等中等教育局教育課程課の稲葉敦第一係長は次のように話しています。
 「道徳教育が始まって以来、道徳教育の見直しはたびたび言われてきましたが、少年事件の凶悪化や教育改革国民会議の指摘などから「内面で道徳的価値を実感できる教材が必要」との声が強まったのです。もちろん、このノートで十分ということではなく、総合的な学習の時間などを使って複合的に学ぶ必要があります。」(『週刊金曜日』5/10号より)
 そして2000年3月15日の参議院文教委員会で,こんなやりとりも有りました。
 亀井郁夫参議院議員(亀井静香の実弟)が次のような趣旨の質問をしています。
 「戦後、私たちは物質的に豊かになった反面、大切な『心』を失った。それが学級崩壊につながっている」「学校の教育を高めていくことが大事だが、道徳の教科書がない。文部省は道徳問題についてもっと突っ込んで取り組んで欲しい。少なくとも『道徳の冊子』を作って教えるようにすべきではないか。」
 この質問に対して、中曽根弘文文部大臣(当時)は、冊子を意図的に「副読本」と解釈して、
 「副読本のお話もありましたので、研究してつくっていったらいいのではないか」と答弁し、すぐに作成のための予算化が行われました。(子どもと教科書全国ネット・事務局長通信より)
 『心のノート』が発行されたこのような経過をみると、まるで戦前の「国定教科書」のようだといわれています。

問題だらけの『心のノート』

 この『心のノート』には、著者名や発行元の連絡先もありません。ただ「文部科学省」と書いてあるだけです。「批判は許さない」この方式は戦前の修身の教科書と同じなのだそうです。それに、教科書はそれぞれの自治体で採択が行われているにもかかわらず、『心のノート』だけは「文部科学省」の直接配布というのも、なんだか奇妙な話です。
 これは、文科省の越権行為そのものです。文科省の役割について、「教育基本法第10条」に、次のように書かれています。

第10条(教育行政)

  1.  教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
  2.  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない。

 そうです。そうなのです! 文科省は、「教育環境の整備」を行うところであり、教育内容に、直接関与してはいけないのです。このような、「教育基本法」が無いがごときの振る舞い。そして、それを許してしまう社会。私は強い危機感を抱かずにはいられません。
 文科省は、『心のノート』について「学習指導要領に則って扱う」といっています。もうすでに文科省は、この「ノート」を使用して「道徳教育」の強化を訴えるよう、各自治体の教育委員会あてに通達を出しています。この通達では、年間35時間の「道徳教育」の時間に限らず、「各教科、特別活動及び総合的な学習の時間などあらゆる教育活動を通じて、児童生徒一人一人の道徳性の育成を図るものである。」と書かれています。今年度4月から「新学習指導要領」になり「道徳教育」の公開授業が、各地域で精力的に行われています。ある地域では、「公開授業」の講師が、「心のノート」はすばらしいと絶賛し、是非使用するようにと呼びかけたとも聞きました。教師向けの指導書も、徐々に配布が進んでいるようです。「心のノート」の使用は強制ではないと言いつつ、教育現場では、「日の丸・君が代」同様に強制される状況になりつつあります。

『心のノート』の内容は・・・

 「うつくしい こころを そだてよう」「にこにこしているかな」「あいさつが、しっかりできるようになろう。」「ありがとうの気持ち、ずっと ずっとわすれない」(感謝の気持ち)「家族が大好き」(小学校・低学年)「礼儀知らずは 恥知らず」「もしもきまりがなかったら・・・」
 (社会の秩序と規律を高めるために)「権利と義務ってなんだろう?」そして“私のふるさと”が出てきて、最後の方になると「我が国を愛し その発展を願う」と赤色で大きく「バーン」と書いてあり、次のページは「日本の伝統文化」となっています。(中学生用)
 「エコロジー・ココロジー」を前面に押し出し、なかなか魅力的な構成になってはいますが、しっかりと、儀礼・家庭の重視・伝統の尊重・愛国心が組み込まれています。
 この『ノート』を読み終えて、私はなぜか、三浦朱門氏(前教育課程審議会会長)の「非才、無才は、実直な精神だけ養っておけ」という言葉を思い出してしまいました。
 ある意味でこの『ノート』も、愚民化政策の一環のような気がします。生きていくために必要な、科学的な視点、批判的に分析する力、自治する能力などは否定的に捉えられており、子どもたちに思考停止を起こさせるものだと言ったら・・・いいすぎでしょうか。
 一つの価値観を押し付けられ、決めつけの「正しい」形だけを要求し、常に「頑張れ!」と画一的な目標を教え込む・・・思春期の子どもでなくとも、大人の私もグレたくなってしまいます。子どもたちには「ありのまま愛される権利」があります。
 子どもたちは、怒りや喜びや悲しみを様々に表現し、たくさんの共感を得たり、時には批判を受けたりしながら、人との関係性の中で、その子らしくたくましく成長していくのだと思います。この『ノート』では、子どもたちに、そのような豊かな子ども期を、保障することはできません。
 子どもたちも、教師も、親も、いい子いい人の仮面をかぶり、それぞれが、ますます孤立を深め、そして、学校も家庭も地域も、とてつもなく息苦しい社会になっていくように思えてなりません。

<通信02.7月号>



なぜ、心の中まで支配しようとするのか?
可知めぐみ(フリーライター)

 6月中旬、息子が通う中学校で「道徳授業地区公開講座」というものが開かれた。これまで1度も道徳の授業を見たことはなかったが、なぜ公開授業が道徳なのかという疑問もあったし、小金井市で今年から始まった学校運営連絡会の公募委員になったこともあり、出かけてみた(中3の息子には「僕のクラスには来ないでよ!」と釘を刺された)。

 2年生は、3クラス全部が文科省から配られた『心のノート』を使って授業を行う予定になっていた。ここで、私は初めて『心のノート』の実物にお目にかかることになった。多分生徒たちにとっても、初めての『心のノート』の授業だったと思う。どこからか出てきた『心のノート』が1冊ずつ配られて、「今日は『私のジガゾウ』を書いてみよう」と先生からの言葉かけがあり、生徒たちは静かに記入を始めた。

 見学者に配られたプリントを見ると、「My Portrait 私の自我像」(自画像じゃない!?)と書いた下に、こんな項目と空欄が並んでいる。「最近いちばん楽しいこと」「いちばんほっとするとき」「印象深いできごと」「うらやましいと思うこと」「最近いちばん感動したこと」「目標にしたい人」「モットー」「夢中になっていること」「最近いちばんよく抱く感情」「自分に腹が立つこと」「自分のテーマソング」「学校について思うこと」「自分の好きなところ」「自分の改めたいところ」「将来の夢」「いまいちばん大切なもの 」。そして、最後だけは大きなスペースがあって、そこには「このノートに向かって自己紹介してみよう」と書いてある。そのとなりには、ご丁寧に「私の自画像」として、写真やイラストのスペースまであるのだ。

 生徒たちはシーンとしたまま「ノート」に向かっているが、あまり書いている様子はない。それを見ながら、先生が「たとえば、感動したことって言えば、ワールドカップもあったよな」なんて、無理やり言っている(ちょうど、ワールドカップの真っ最中であったし、「感動した!」が好きな人もいたっけ……)。しかし、これじゃ、まるで社会の小テストでもやっているような雰囲気だ。

 私が生徒の立場だったら……と考えて項目をよく見ると、こんな雰囲気で書くような内容ではない。最初の「最近いちばん楽しいこと」だけで、ウーンと止まってしまう。「そうねえ……」とあれこれ思いめぐらし始めたら、30分はかかりそうだ。社会や英語の答のように、次々と空欄を埋めるわけにはいかない。「最近いちばん抱く感情」「自分に腹が立つこと」「自分の改めたいところ」なんて、そうそう書けるものではない。しかも、これを先生が見るだろう、クラスのだれかが見るかもしれない、そう考えたらきっと筆が止まるだろう。

 それでも、「これは授業だから書かなきゃ」と無理をして書くとしたら、望まれているようなウソを書くか、どうでもいいことをいい加減に書くしかないだろう。なぜ感受性の鋭い中学生にこんな無理をさせるのだろうか。ふだんの授業でも「意欲」「関心」「態度」が評価の対象になって、ただでさえ「先生ウケ」を考えなければならない今の中学生にとって、苦痛の時間、“うそっぱちの自分”の時間を増やすだけではないかと私は思った。

 中学生版『心のノート』を続けて読んでいくと、ねらいがだんだん見えてくる。「元気ですか あなたの心とからだ」「自分で自分をコントロールする」「ステップアップのために」「努力することはすばらしい」「自分のことは自分で決めたい」「自分の人生は自分の手で拓こう」「夢や理想をもち、それに向かって一歩一歩進んでいく姿はたのもしいもの」「自分をまるごと好きになる」「あなたらしさがあなたの個性」……読んでいくうちに、私は息苦しくなってきた。追い込まれていく感じだ。つまりはお説教本なのだが、ところどころ自分で書き込みをして、自分から納得するように誘導し、自分で自分を改造させようという目的のようだ。

 しかし、「自分をまるごと好きになる」と言っておきながら、「自分のこんなところを」→「こうしたい」と書かせるのは矛盾ではないだろうか(この空欄が4つもある)。いいところも悪いところも、「ま、これが自分なんだから」と受け入れつつ、折り合いをつけつつ生きていくのが生きる知恵じゃないかと私は思っているが、『心のノート』にはこう書いてある。「でこぼこの自分だけれど/あなたの中にある『いいところ』『改めたいところ』。それは人それぞれ。/自分のいいところは磨きをかけよう。十分でないところは改善しよう。/そんな気持ちがあなたの個性をきっとよりよく伸ばすだろう」と。

 不登校の子どもがさらに増えて、昨年度は13万9千人という発表があった。息子の小学校のときの同級生で、先生、友達、親たち、だれからも信頼が厚く、評価の高かった女の子が、6年生の2学期から学校に来られなくなった。運動も勉強も、なんでもできた。みんなの期待に応えた。でも、疲れてしまったんだろう。思春期に入り、「わたしって、ほんとは何をしたいんだろう?」と考え始めたとき、真っ暗な闇に一人放り出されたような気持ちになってしまったのかもしれない。

 と想像するのは、私自身がそういう子どもであったからだ。まわりの期待に応え、「いい子」を続けることがどんなにつらく悲しいことか、どうして大人たちはわからないのだろうか。私の場合は、プロテスタントの両親に育てられ、夜一人神に祈りながら「今日はこんなことをしてしまいました」「明日からは必ず直します」と反省する毎日が、自分の感情を押し込めることになっていった。『心のノート』も同じように心の中に入り込み、子どもの心をコントロールしようという意図を感じる。小学校1年生から、「気持ちのいい1日」「がんばってるね」「よいこと すすんで」「うそなんか つくもんか」……と素直に従っているうちに、つらくなっていく子がおそらく出てくるだろう。

 それにしても、なぜこんな無理を今子どもたちにさせなくてはならないのだろう。その本音を『心のノート』のあるページで、私は感じた。中学生版の90〜91ページだ。大きな見出しは「自分だけがよければいい…」、その下に「そんな人が多くなったと思いませんか?」と続く。さらに下には、公徳心のない例、社会連帯ができない人がいることが書かれ、ページをめくると、「やっぱり『よい社会』で暮らしたい」「そんな社会を築いていく当事者。それは、あなた自身」と書かれている。

 私はこれをこう読んだ。「政治家は贈収賄で捕まるし、企業は平気でウソの報告をする。それに、宇宙船地球号はボロボロでどうしようもないんだ」「あとは、きみたちがしっかりして、なんとかしてくれよ。大人はもうアテにならないからね」と。とんでもない!話だ。大人が子どもに誇ることができる社会、子どもが子どもとして安心して生きられる環境をつくるのが、大人の責任というものだ。それができない自分たちの責任を放棄して、こんなやり方で子どもをいじめることはやめてほしい。

 夕食を食べながら、息子に「心のノートって、どう思う?」と聞いたら、「くだらないよ」の一言が返ってきた。少しほっとした。


<通信02.9月号より>



「心のノート」わたしはこう思う

青木 悦(教育ジャーナリスト)

 まず一目見て思ったのは、どこかの宗教団体のパンフレットか…。グラデーションの柔らかい色づかい、妖精、しゃぼん玉、虹、そしてあちこちに美しい日の出(日の入り?)と富士山。さらに読んで気味悪いのは、学校はどんなところ? に対して「自分をのばしていくところ」「たくさんの人が見守ってくれるところ」――そうかあ? ウソが多すぎる。最も多いウソは「家族」のところ。さらに、さらに気味悪いのはこの“教科書”を書いた人がわからないところ。


小沢 牧子(臨床心理学研究者)

 ここ10年ほどの「心ブーム」には困ったものです。不都合なことは、あなたやわたしの「心」のせい、それを専門化にきれいにしてもらえば解決するという期待の広がりは、生きることを人まかせにし、「生き生きした心」をエステのように金銭で買う感覚や考え方につながっていくように思います。

 事実、ある若い人が「汚れた玉ねぎみたいな自分の皮を専門家にむいてもらうと、中からピカピカの自分が出てくるような、そんな期待がある」と言っていました。子どもや若い人たちが競争させられる状況のなかで孤立し、心細い思いを抱えているのは確かなことでしょう。

 そこに今回、『心のノート』が登場してきました。

 子どもの世界にも「心理主義」を浸透させようとする新しい道徳教育の流れです。小学校1・2年生用の冒頭は「むねをはっていこう」で始まります。比べられ競わされる状況の中では、胸をはれる子どもはほんのひとにぎりのエリートにすぎません。誰もが胸をはれる暮らしは、子どもをとりまくのびやかな状況と信頼しあえる仲間との関係のなかにあるという事実を忘れずに、おかしい流れに異議を表明していきましょう。


佐々木 賢(教育評論家)

 「正義と公平に関して誤った観念を抱く者がいるかぎり、貪欲や不合理に反対し全体の利益を擁護することは、我々の権利であり義務である」。文中の、正義・公平・誤った・貪欲・不合理・権利・義務という語は、一つ一つ事実に照らして検証しなくてはならないのに、それがなされていません。これは六百万人のユダヤ人を殺したアドルフ・ヒットラーの文です。「心のノート」はことばを検証しない点で、この文に極めて似ています。


篠崎 修(中学校教諭)

 このように振る舞い考える子が「よい子」で、そうできない子が「良くない子」というメッセージが隠されていると読みとれてしまうのは、私の思い過ごしでしょうか。

 時には逸脱行為もあります。多感な思春期ならなおのこと。子どもたちが求めているのは、こんなモノサシではなくて、丸ごと自分を受け止めてくれる大人の存在ではないでしょうか。「よい子」の行き着く先が心配です。


芹沢 俊介(評論家)

 「心のノート」は子どもたちに安心を与えない。いつも心を点検・監視する装置である。もう一点わかることがある。この冊子が、陰影も屈折も乏しい人たちの手になったものだということだ。正義や善を行うときは隠れてしろ、昔新約聖書がそう私に教えてくれた。恥ずかしいということがどういうことかをこれで知った。だからもし私が子どもの心に何かを贈りたいと思うのなら「心のノート」などではなく、自分の恥じの体験にするだろう。


寺尾 絢彦(元家庭裁判所調査官)

 迂闊にもこんなすごい「心のノート」が配られていたなんて知りませんでした。読んでいるうちにムカムカし、気持ちが悪くなり、吐き気がしました。でも素直な子どもであればあるだけ、これをすっと受け入れてしまうことでしょう。一つの方向へ、それ以外はダメなんだと思わせられてしまう恐ろしさ。子どものエネルギーを奪い取り、創造性も豊かな感性も摘み取って、これを作った大人に都合の良い子どもたちばかりがふえていったら…。一人でも多くの人に知らせていきたいと思います。


西野 博之(フリースペースたまりば)

 小学校低学年(1・2年)用に目を通すと、「しっかりやろう」「あかるい気もちで」と、常に「心が前向き」であることが要求されています。「学校の勉強が楽しい」って感じることが、元気である、「元気パワー」に満ちあふれているって読み取れる記述があります。つまらない、質の低い授業でも、心が元気なら楽しいって感じられるはずであると、小学校1年生から学校で教えこまれるわけです。面白くないと感じた心は、楽しいと感じられるように変えていかなければいけないということなのでしょうか。「心のノート」が意図することは、「心を豊かにはぐくむ」というお題目とは全く別のところにあるということは、手にとるようにわかります。こんな本を使って、家庭においてもまじめに「心の教育」に取り組もうなどという親があらわれないことを、心から祈ります。


毛利 甚八(漫画『家栽の人』原作者)

「心のノート」は偽善の塊だ。小学一年生にこんな老けた考えを教えなくたって、子どもは周りに合わせて偽善くらい自得する。人間の精神を育てるのは闇であって、こんな「ステキなお題目」を合唱する過剰適応の確認ごっこで、心を狭くすれば、ますます子どもの心は健康に育たなくなる。中学生に「悠久の自然を畏れる」心を教える前に、文科省は国土交通省と農水省に殴り込みをかけて「既得権死守のために自然を弄ぶ」大人を粉砕してみせなさい。

<通信02.7月号より>



●『心のノート』は市販されています。

以下の版元に直接電話をかけて注文をすることができます。

小学校1・2年生用 360円
 文溪堂出版(03−5976−1311)
小学校3・4年生用 370円
 学習研究社(03−3726−8134)
小学校5・6年生用 380円
 暁教育図書(03−3825−3302)
中学生用      430円
 暁教育図書(03−3825−3302)


− 子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会 (子どもと法21) − 関連サイト 事務局通信
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