神戸児童殺傷事件から5年
97年5月24日、神戸市須磨区の北須磨団地(友が丘)で小学6年生の男児が行方不明となり、3日後に団地内の中学校の校門で遺体の一部が発見されるという、非常に痛ましく、全国を震え上がらせた事件から5年たった。事件は私の自宅から5分の所で起こった。当時、私は北須磨団地を含んだ須磨ニュータウン内の養護学校に勤めていたが、被害者は障害児であり、しかも事件は自宅の友が丘で起こり、6月28日に逮捕された被疑者が同じ団地内の私の自宅から5分の所に住む中学生だったこともあり、体験した非常に激しい衝撃は生涯忘れることはないだろう。
事件発生から1ヶ月間はまさに戒厳令の街だった。団地住民の倍以上の多数の制服私服警察官・機動隊員が昼夜にわたり警備と捜査にあたっていた。それとほぼ同程度の報道関係者が殺到した。テレビでよく見るニュースキャスターの姿も度々目にした。捜査官の捜査(職務質問など)や報道機関の取材はもちろん頻繁にあった。
被疑者逮捕までは、養護学校の生徒だけではなく、自らの命も守らねばならず、恐怖感からの極度の緊張で、精神的には限界状態だった。事件の2ヶ月前の3月にも、隣の団地で小学生2人が通り魔により殺傷されていた。(不幸にも被疑者は同じ少年だった)相次ぐ身近に起こる殺人事件(それも子どもをねらった事件)に、団地の住民はみんな疲れ果てていた。神戸のすべての小中学校は集団登下校となった。特に被害者の小学校の集団登下校は多くの保護者たちの警備による厳戒体制の下での厳重なものだった。この小学校の児童だけの集団登校は、その後2年間も続いたのである。私たちは、列の前後に高学年が立ち、その間を低学年の児童が列を乱さずに並んで登校する姿を2年間も見てきた。また校門付近に児童の登校する時間帯に警察官が警備にあたるのも、事件後少なくとも2年間は続いた。小学校の前は市バスの経路になっていて、団地以外からやってきた乗客が「ここが、あの事件のあったところか……」という会話は現在も耳にする。また事件に関心を持って遠方からやってくる人も後を絶たない。友が丘は観光名所のようになってしまった。
被疑者が逮捕されたのは台風が上陸接近していた第4土曜日の夜だった。報道は一段と激しさを増し、精神鑑定が終了していないのに鑑定結果が報道されたり、顔写真や少年の学校の指導要録を掲載したメディアまで現れた。そして96年からの少年法改正議論に世論のきわめて感情的な火をつけてしまったことは、本会会員のみなさんの御存じのとおりである。改正反対の署名集めに走り回り、150枚は集めた。多くの弁護士や少年法学者の先生がたと面識が生まれ、現在もいろいろとお世話になっていることには、深く感謝する次第である。
ところで昨今、個人情報保護法案・人権擁護法案(5月25日現在)国会で審議されている。神戸児童殺傷事件は顔写真掲載など明らかに少年法の理念である少年の保護更生を大きく損う報道が1年以上も続いた。その報道機関が上記の法案に強く反対している。国会に提案されたメディア規制法案は本来の理念がねじ曲げられたものであり、表現の自由を保障した憲法21条に違反し私も法案には反対である。しかし、5月23日『毎日新聞』には「メディア規制法案に言いたい 5」として、一昨年5月の「愛知主婦殺害事件」を取材した二人の記者の法案に反対する連載が掲載されている。いまだに「迫れぬ少年の心の闇」と取材中心の主張で少年の更生の視点はほとんどない。憲法の保障する基本的人権は全国家的・前憲法的な基本権であり、特に表現の自由は民主主義に不可欠な権利である。しかし基本的人権も内在的制約に服するのである。報道機関が法案に強く反対する姿勢は私も支持するが、憲法など法律論に基づかない主張は説得力を欠く。
この5年間は、私にとって重く長い年月だった。事件当時、養護学校の教師だったが、今は大学で憲法・刑法・刑事訴訟法などを学び、04年にロースクールをめざしている。大きく変ったところは、法的論理的に批判できるようになったことである。(今から思うと当時のいろいろな反対運動は感情的・主観的なものだった)有事関連法案でも憲法統治機構論から法的に強く批判できるようになった。もともと大学院マスターを終了しているので勉強することは大好きで全く苦にならない。昨年は刑事政策論で少年法を、今年は刑事訴訟法を、それぞれ全国的に実績のある教官の講義で学んでいる。
2004年目指して、ひたすら頑張るのみの毎日である。
【篠崎さんの推薦図書】
篠崎俊博著『少年Aと少年法』(1,000円、明石書店)
須磨友男著 『分けられた場での事件 神戸小学生殺害事件』(1,800円、現代書館)
<通信02.6月号より>
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