座談:どうすりゃいいんだ、この低調

出席 味岡尚子(全国PTA問題研究会)
    石井小夜子(弁護士)
    遠藤勝(小学校教師)

 教育基本法がいよいよ「改正」されようとしています。今のところの情報では年内(11月か)に中教審から答申がなされ、来年3月には国会に上程される見通し。改憲の前哨戦という重大な局面であるにもかかわらず、世論はいまひとつ盛り上がらないと感じている方も多いのではないでしょうか。私たち「子どもと法・21」でも、今までに何度か教育基本法の問題で学習会を開いてきましたが、なんかこう、力が湧いてこない感じは否めません。
 さて、問題は何処にありや。
 しかして、敵の狙いやいかに。
 少年法での苦い学び「大切なものは失わないとわからない」を繰り返さないためにも、私たちはこの秋、どうしていけばいいでしょうか。
 その手探りの一歩、話の端緒として、3人の方に自由に語っていただきました。


●10条という砦
―今回の教育基本法(以後「教基法」)「改正」で、よく指摘されるのは伝統や愛国心の強調、私に対する公の優位性などですが、石井さんは再三「10条が狙われている」ということを訴えていますよね。

石井 ええ。10条1項では、直接教師が責任を負う、ということと自由な教育を保証するということが書かれているわけです。そして、第2項では教育行政は必要な諸条件の整備のみで内的事項、教育内容に踏み込んではならないとしています。つまり、教基法第10条は国家や教育行政の教育現場への介入を禁じているわけです。戦前の教育のありようを反省し、国家や官僚は干渉しがちだということを前提につくられている。47年の現教基法制定当時の国会答弁を読むと、そのへんのところがよく出ています。
 そして、戦後裁判はずっと10条をめぐって、教育関係の裁判闘争が続いている。それは例えば家永教科書裁判だったり勤務評定問題などですが、その他も大体10条をめぐっての攻防で、教科書裁判で杉本判決で勝ちとったのも10条があったからです。その直後から復古的な攻撃は始まり、戦後は常に不当な介入や教基法に対する攻撃が続きますが、今まさにそこが突破されようとしている。

味岡 遠山文科大臣の諮問では、「もう古くなって今の時代には合わないから教基法を変えましょう」というところから話が始まっている。そういうふうに言われるとね、普通、「そうだね、見直してもいいじゃない。不備なところもあるだろうし、よりよくなるなら」と思ってしまう。積極的にある方向へもっていきたい意図的な人たちがこの「改正」の動きを引っ張っているわけだけれど、多くの反応は「時代に合わせるのが何が問題なの」という感じ。そう思う人にどう問題点を伝えて行けるかがとても大切な点だと思う。悪い指導者はだめだけど、いい指導者はいいみたいな。

石井 よい内容の教育ならいいということになれば、国はどんどん介入してくるよね。「これはいいものです」って言って。

第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

●「改正」の先取り「心のノート」
―教基法の「改正」を先取りするようなことがいくつも現実化していますが、「心のノート」なんかはその最たるものっていうふうに思います。あれなんかも、「最近の子どもは道徳も礼儀もなってない。そんなときにこんな副教材ができてよかった」と捉えるひとも結構いるんじゃないでしょうか。そうすると、国が強権的に押し付けたという感じにならず、広く国民から求められたことを文科省がやりました、みたいな。

味岡 やっぱり専門家上、みたいな感覚が多くの人の中にすごくあると思う。「心の病」「心の問題」が流行りになっているし、専門家に頼ればなんとかなるという感覚が広範にある。でも、心までコントロールしてほしいと思ってしまうのは最近の事のような気がするけど。

石井 そうね。お上がそこまでしちゃいけないんだよ、っていう何か一線っていうかそういう空気が今まではあった気がする。

遠藤 そのことに関して言えば、99年の「国旗・国歌法」が内心の自由まで踏み込める分水嶺だったと思います。それなのにいとも簡単に国会を通過してしまった。アジアの国々からの批判もあったし、今まではそれなりに気を遣っていたけれど、敵は「これならいける!」と。そして、その後「教師には内心の自由はないのだ」ということが平然と言われるようになった。伴奏を拒否したら音楽専科をはずされたり、処分されたり、卒業式で立たなければ処分とか。そのうち北九州みたいに心を込めて国歌を歌っているかどうかっていうことまでチェックされるようになると思う。ということは、次は教師が子どもにそういうことをやるようになるというわけですよね。
 もう少し別の言い方をするなら「国旗・国歌法」成立の前後では教育行政のあり方がすごく違う。それまでは若干遠慮がちで、国家主義的な考え方と自由主義的な考え方と両方のせめぎ合いがあったけれど、法案成立を境にそのふたつがガッチリとスクラムを組んだ。自由競争的な考え方の中でエリートとそうでない者をふりわけて、さらに国家主義的な考えでそのエリートを守っていく構造がどっときている。
 今回の「心のノート」は、目的も方針も教育基本法に違反してるし、10条にも違反してる。検定制度すら無視して自分たちが勝手に発行できるという前例にしている。これを誰か訴えないかな。本当は訴えてしかるべきような、あまりにひどいやり口でしょ。教科書を検定すればいいという話じゃないんだけど、検定やめたらどうなるかというと文科省が好き勝手にやれますという前例かもしれない。これはすごい(怖い)ことだ。何でもあり、何でもやれちゃう、何の歯止めもない、という世界だよね。

●教基法は教育関係者だけの問題か
―教育基本法「改正」反対の運動がなかなか盛り上がらない、というあせりが私たちにはあるわけだけど、少年法のときもそうだったけど、例えば住基ネットとか反天皇制とか反戦とか他の運動をやっている人たちから見ると、「あ、教育問題ね」って関係ないように受け取られているところがあるのでは? 日の丸・君が代だけは違ったけど。

遠藤 国旗・国歌法成立以前は「日の丸・君が代」を教育の現場に閉じ込めておくことができた。卒業式や入学式の頃には、日の丸・君が代というのはどういう問題なのかについて、いろいろと考えたり議論したりすることができた。でも法制化によって、「昔のことは忘れちゃっていい」という前例になってしまったという気がする。この精神の転換は非常に重要な問題だ。50年前に何があったかをはじめ、積み上げてきた歴史というものを非常に軽んじるいいかげんさ、そんなこともういいんじゃないの、という流れがすごく怖い。日の丸・君が代を争点にしながら、戦争の問題だけじゃなく「教育とはなにか」ということを今までは本質的に考えてこれたし議論してこれた。今年の卒業式をどういうものにするか生徒と教師で話し合ったり、ひとつひとつのことを大切にしながらやってきたことが全部潰されてしまった。

味岡 国立市では親の動きも潰された。「PTAが卒業式や入学式について意見を言うのは明らかに逸脱行為だから、黙って学校のやることに従いなさい」というような内容の介入があったんだから。(この件に関しては、通信4月号に掲載されています)
 でも、よく考えれば教育基本法は学校教育だけのことじゃないんだから、本当はもっと広がる可能性はあるはず。

石井 子どもの問題ということだけでもないですよね。子どもはみんな大人になっていくんだし、結局、どういう国民をつくろうとしているか、っていうことでしょ、教基法の問題は。そこのところがあまり実感されていないんじゃないかな。

●行きつく先はどこか
―それで、もし教基法が「新しい教育基本法を求める会」みたいな路線で改悪されてしまったとしたら、一体、その行き着く先はどうなんでしょう。

遠藤 やっぱり有事、徴兵っていうことは睨んでると思う。
 僕の体験で言うと、授業の中で韓国の徴兵制のことを紹介したビデオを見せたことがあるんだけど、子どもたちは言葉を失くしましたね。つまり、軍隊とか軍事行動とかいうものが今はテレビとかでバーチャルなものになっていて、言葉も「空爆」という攻撃する側からのもので、本当に悲惨な場面はテレビに出てこないし、「空爆」でなく「空襲」と言えと主張している人もいるように、爆撃を受ける側という発想がない。自分が軍隊に入った時にどうなるかという想像が働かない。そういうものを何らかのかたちで教師が出しつづけて行かなければいけないんだけど。

味岡 テレビで敗戦特集番組を毎年毎年やってはいるけど、中味が風化してきているというか、「ヤバイぞ」っていう感じが抜けてきている、っていうか。

遠藤 教育って大きくとらえると、学校教育に代表されるように意図的・計画的にやられるものと、家庭教育みたいにその場その場の無計画なものとあるけど、無計画な部分の方が非常に萎えてしまっていて、意図的・計画的なものに丸投げというか吸い取られちゃっていて、意図的・計画的にやりたい人たちはどうしたいかということを計画して次から次へと手を打ってきているわけだから、それに対抗して本当のものを見据えたり見通したりするのが難しくなってきている。その上「家庭が悪い、家庭が悪い」と言われ続けると、どんどん縮こまってしまって自信を失ってしまう。都知事みたいに強い発言があると、「そうかな」ってぐらぐらきちゃう。地域でのコミュニケーションの場も萎えちゃってるし。
 そういう中で去年の教育3法みたいなのが出てくる。そして荒れる子は出席停止、じゃ、その子たちどこへ行くの?切り捨てられれば荒れるしかなくなり、挙句「やっぱりあいつらはダメなやつらだ」ってことになる。そうなると、あとは「軍隊で叩き直さなければ」というところへ行く。

味岡 家庭教育なんて自信をもってやってるなんてことはないじゃない。ずっとそうだった。なのにそこが弱点みたいに今は言われているんだよね。若い親だってときには息抜きでパチンコ屋に行ったりカラオケに行ったりしたいわけでしょ。それを「いいよ、たまには息抜きしておいで」っていうような回りのフォローがなくて、親だけが孤立しているということが問題だと思う。

石井 家庭教育学習を親全員に義務付けるとかいう議論も出てきてるし。

遠藤 教育はすでに二極分化している。超エリートとそれ以外。これは明らか。そこで切り捨てられたりした人間は一体どこへ行けばいいかという問題は残るわけで、国家を成立させていくという観点から言っても本当はそれではダメなのになあ。

味岡 向こう側にすればね、切り捨てられて行き場のない人がいるようなときに軍隊を用意しないと、とも言えるでしょ。

石井 戦前、教え子を戦場に行かせないように声を上げた教師はいたのかな。あまりそういう話を聞かないけれど、これ、杞憂じゃないと思うんだよね。何かまだ「戦争なんて他人事、戦争なんて先の話」っていう空気が強いけれど。私たちが今何をどうするべきかを考える手だてとしても、そういう話は聞きたいんだけれど。
 だって、もうすでに現実は国家が教育現場に介入しているわけでしょ、それなのに、その上に今回教基法を「改正」するってことに重きをおいているわけだから、そこには何か明確な意図があるわけでしょ。反体制的な教育活動をする人の最後の砦を壊して、法的な根拠も奪うっていうことは絶対あると思うけど、それだけかな。

味岡 臨教審のときに考えていたことを実現したいんじゃない。要するに、人権を制約し、超エリートを育て、あとは切り捨てて行くという。エリートになった人も辛い、そうでない人も辛い。長期に見れば、誰も得をしないんじゃない。経済界も。あとは有事のときに役立つようにかしら。

石井 はあ。どうすりゃいいんだろうね。

遠藤 地域とかで地道に話していくしか思い浮かばないけど。

味岡 そうね。そうなんだけど、もう少し何ができるか、「子どもと法・21」でもみんなで討論してみよう!

(終・02.8月)
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