教育基本法「改正」論議に思う
●「いろいろな人がいて楽しいね。」
「いろいろな人がいて楽しいね。」
私が勤める夜間中学での下校がてらの高齢の生徒の会話の一こまである。
夜間中学には、中国帰国者などの外国から来日した家族も多く学んでいる。仕事先でいじめや不当な待遇に涙して憤慨する若い中国帰国者の青年をみんなで事情を聞いたり、ああだこうだと励まし合っている場面が一つの授業となる。怒りの涙の青年が、帰りには、和みの顔を取り戻す。何の答えも出していない。また仕事場にもどれば、針の筵の仕事は続くに違いない。でも、次の日も夜間中学に訪れる。そんなことが繰り返される。この人も、あの人も。
中国残留邦人の老齢の生徒は、中国での逃避行での悲惨な体験に触れるたびに体を震わせる。
川崎の外国人市民会議をまとめていた牧師・李仁夏さんが、かつて、講演会で「さまざまな国籍・言語の人たちの会議で、共通語は、実は『差別』であった」と話されたことが、目の前のこととして実感を持つ。
かつて、「小児麻痺」で足が不自由になったこと、ただそれだけの理由で就学猶予された人が、学びを取り戻しに訪れている。このほか、経済的理由で、病気で、いじめで、教師の暴言などさまざまな理由で、学びを奪われた人が自己回復のために学んでいる。私は、この職場に来なければ、こうした事実も重いものとしては思えなかったに違いない。知らされてこなかったこと、知ろうとしてこなかったこと、そのことよりも価値あるものを他に求めていたことなど、人としての「冷たさ」をこうしたさまざまな生徒との出会いの度に思い知る。
この学びの場には、生徒と教師の利害はあまり対立しない。正直ほっとする。校則もなければ、成績も、一点で泣くというような場面もない。しかし、限られた時間での授業で、学習者の求めているものをすべて満たすことは到底できない。年齢とか、仕事による不規則な学習などで学習効果もまちまちでゆっくりとした人も少なくない。また、この人たちに、必要なこととは何かと考え続け、試行錯誤で学びの営みを創造していくことも、決して容易ではない。
しかし、それでも、この学びの場は、存在すること、そのことが、かけがえのない尊いものとして、学びに訪れる人・学びに寄り添う者に大きく屹立している。
今、もてはやされている「効率」や「競争」の尺度とは、全く次元の異なる価値尺度でなければ、この人たちの学びの価値は、推し量ることはできない。
私は、この学びに訪れる人・学びに寄り添う者にとって、互いにかけがえのない尊い存在としての「場」が、本来の「学校」であり、そこでの営みが本来の教育ではないかと、学びから遠ざけられていた人々の学びを取り戻す姿から痛感している。
●「競争と選択」・・・「子どもの商品化」
都教委は、一昨年、東京都の教育目標の記述の中から、「日本国憲法・教育基本法・子どもの権利条約」の文言を削除した。
来年度から、都立高校入試は、学区制がなくなり、各高校ごとに多様な入試形態がとられるなど大きく様変わりする。過日、中学校向けに行われた、来年度の都立高等学校の入試要綱の説明会では、冒頭の挨拶で、都教委の担当責任者は、「都立高校も競争と選択の時代に入りました。・・・」と切り出した。
学校選択の自由化は、東京の23区の中学校でも多くの区で導入されつつある。競争の論理は、経営の論理であり、対コスト効率を主眼にすえたものである。某区教委は、学校の教育目標について「抽象的表現」を排し、「数値化」を指示したという。また、某区教委は、教室に「塾講師」を立たせ、授業の活性化を図るという。さらには、「都教委は、小中学校の悉皆学力検査の検討に入った。」との報道も飛び込んできている。各学校は、自校のPRに腐心し、「数値」向上に大きくシフトせざるを得ず、子どもの確保や学力テストの点数に一喜一憂するようになる。これは、「子どもの商品化」にほかならない。
ついでにいえば、ひとりひとりの教師の教育理念についても、都教委は、成績主義・効率主義の市場の論理で制約を加え、管理職の目にかなったかどうかの業績評価で教師を分別し、管理職・教委の意にかなわない教師については、強権的に現場外しなどの処分攻撃を加えてきている。都教委は、そうしたもの言わぬ教師作りをもって、「教育現場の円滑化・活性化」と強弁している。
さらに、都教委は、都立高校の定時制課程について、現在の半数に及ぶ大幅な削減計画(将来的には全体)を打ち出している。続いて、盲・ろう・養護学校の再編もである。いうまでもなく対コスト効率からの施策以外のなにものでもない。また、ある教育基本法を考える集会で、日本育英会の労組の代表が、「奨学金制度」の危機を切々と訴えていたのが心から離れない。特殊法人の整理で、民営化されていく中で、従前の無利子の奨学金は廃止され、就学の機会均等は、実質崩壊されるという。
「商品の差別化」が着々と進められている。あたかもそれが時代の要請であるかのように。
保護者も、子どもも、教師も教育行政の流れに乗り遅れることの不利益を第一に考えないわけにはいかない。当然の思考である。好むと好まざるとにかかわらず、現実的対応を採っていかざるを得ない。「うちの子だけは・・・」「うちの学校だけは・・・」
しかし、それでも、あえて、考えてみたい。
●利潤至上主義の破綻
東海村の原子炉の事件をはじめ、牛肉偽装・原発事故隠しなど企業の倫理が大きく問われる事件がここ数年続発している。その結果は、企業の存続に関わる危機に見舞われている。消費者・住民への背信行為であることはいうまでもなく、当然の帰結といえなくもない。しかし、一方で、一握りの経営陣の希薄な経営倫理により、何百・何千の労働者の雇用が一瞬にして失われていくということも見落としてはならない。年間三万を超える「自殺者」の事実と引き合わせれば、これは、まさに利潤至上主義の破綻であり、「企業戦士」の「戦死」、膨大な「無辜の民」の「憤死」であるとはいえまいか。
産業界の要請を体現した教育行政による「子どもの商品化」政策は、すでに、歯止めがかからないバブルに近い。子どもの尊厳・学びの尊厳への普遍的理念に目を閉ざした近視眼的教育施策は、将来の「不良債権」に等しい。バブルは、いずれ破綻する。
●「子どもの権利条約」の理念から
では、その「教育の競争と選別」バブルの芽をつみ取る手立てとは何か、私は、それへの一つの大きな示唆が、実は、「子どもの権利条約」の中に与えられているように思うのである。すなわち、地球規模で考える視点であり、子どもと大人を従属・支配の関係から、信頼の基盤を互いの人格にすえたパートナーとしての関係に創造していく理念である。このことは、すべての現代の社会の対立矛盾にあてはめられることである。
しかし、この理念の実行には、実は、教育現場の教師には、たいへんしんどいことである。価値観の逆転に等しい場合があるからである。この教師の原罪に近い「先生主義」の克服が、あえていえば、教師にとって必要とされる教育改革ともいえる。
いずれにせよ、互いのさまざまな思惑や利害を超えて、地球規模で何にどうつながっていくか、そこへの想像力を育むことが、今日の競争や選別などの拡大膨張主義に終止符を打ち、真の協調と対話・人権の世紀への転換につながっていくものとの思いは強い。
●「日本人」である前に
先の、教育会議国民会議の報告では、教育基本法「改正」の観点の3つの一つとして「新しい時代を生きる日本人の育成」があげられている。文部科学省の「新しい時代にふさわしい教育基本法のあり方」という文部科学相の文章にも、「・・・日本人を育成・・・」「日本人としての自覚を持ちつつ・・・」「次代の日本人に継承すべきもの・・・」等々の記載が存する。
教育基本法「改正」論議に、「日本人」を全面に打ち出していることにこの問題の経緯・背景が凝縮されている。憲法・法律に、「日本人」を主語とする条文はまずみかけない。ちなみに、教育基本法は、主語は、「われらは」「国民は」「男女は」・・・である。今回の、教育基本法「改正」の行方は、この主語、そして教育対象をどう見るかという別の意味でも重大な意味を持っている。
教育の権利主体者として「日本人」とそうでない「在日外国人」を対比し、峻別する発想は、明確に我が国が批准した「子どもの権利条約」違反である。こうした地球規模の世界スタンダードの理念さえ持ち合わせていない「理念」作りは、やはり脆弱かつ危険な意思をもつものといわざるを得ない。
●明日の地球のために
教育を数値化し、効率主義・市場主義の論理で、ことさら、選別・競争・対立をあおり、子どもの世界に勝ち組・負け組を持ち込もうとする教育は、この地球は決して求めていないこと、そして何より、失われていくことの大きさに一日も早く目覚めるべきではないだろうか。
教師が、さまざまな活動・知識の理解や習得の過程を通して、目の前の子どもに向き合い、子どもの願いや叫びに深く耳を傾けつつ、さまざまな葛藤やつまづきを繰り返し、いったりきたりしながら、子どもの生き方に寄り添うこと(形の上で励ますことになるのかも知れない)が、実は教師自身にとって生き直すすべが与えられ、クラスに学校に「命の尊厳」というかけがえのない豊かさが吹き込まれているという教育のコアの部分は、到底数値化などできるべくもない。
教育改革論議の出発には、こうした、学びの場が、人の生き方を励ます尊いもの・かけがえのないものであるという理念の共通理解の確立が大前提である。
そして、この共通理解確立への不断の努力が明日の地球のためにも、明日の日本をほんとうに豊かにし、さらには、世界に信頼され、誇りとなる得る日本の産業確立のためにも、遠そうで近い道ではないかと思う。
よって、教育基本法の「改正」は否である。
<通信02.10月号より>
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