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司法制度改革審議会の意見書によると、裁判員制度は刑事裁判において市民が裁判官とともに裁判内耀の決定に関与する制度であり、裁判院が参加する事件は法定刑の重い犯罪の事件と考えられています。また、裁判員に選任された国民は病気等のやむをえない事情のある場合以外、参加義務があるとされています。意見書は大枠を示すにとどまっており、詳細な部分については今後の議論を待つところです。
そこで、ここでは具体的な内容についてではなく、裁判員制度導入そのものについて考えたいと思います。導入理由について日弁連のパンフレットを見ると、「わが国では戦前の一時期、国民が裁判に参加する『陪審制』が実施されていました。戦後は職業裁判官だけで判断しています。しかし、裁判は国民のものです。『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の原則を確立し、国民の良識に基づいた刑事裁判を実現するために『裁判員』制度の導入が提案されたのです。日弁連はこれを支持します」となっています。これを整理すると、(1)現在は職業裁判官だけによる裁判が行われているが、国民が裁判に直接参加して裁判を国民のものにする必要がある。(2)現在の刑事裁判は「疑わしきは被告人の利益に」の大原則が確立されていないので、これを確立する必要がある。(3)国民の良識に基づいた刑事裁判を実現するためという3つのポイントが含まれていると思います。
まず(1)について考えて見ましょう。裁判員制度の考えに参考とされたのが、陪審制(主に英米で採用)と参審制(主に欧州大陸諸国で採用)でした。参審制は陪審制が型を変えたものと見ることができます。共通点は陪審員や参審員と呼ばれる市民から選ばれた人々が裁判に直接参加することで、異なる点は具体的にどういった関与のし方で参加するのかというところです。これらは、民主主義の原理に基づいて司法に市民が参加する制度だと説明されています。裁判員制度も市民(意見書では「国民」)から選ばれた裁判員が裁判に直接参加するので、参審制同様に陪審制の型を変えたものと言えます。そこで、裁判員制度も司法に市民が参加する制度と言えるでしょう。
しかし、ここで私はちょっと疑問を持ちました。確かに、市民が裁判に直接参加することは、市民が司法に参加するといえると思いますが、民主主義の原理に基づいて市民が司法に参加する方法は他にないのかな?例えば、司法権一般に対するシビリアンコントロールのための司法参加ならば、最高裁判事の選考に市民が関与できるしくみを考える(現在は司法と行政のトップにより私たちの知らないところで選考されている)とか、下級裁判所裁判官の任命や人事に市民尾管氏や関与ができるしくみを考えることで、市民が司法参加することは可能です。また、例えば、個々の裁判にもっと市民感覚を反映させるための司法参加ならば、裁判官の多くを経験豊かな弁護士さんから採用することによっても間接的ではあるが市民感覚をもっと裁判に反映させられると思います。それに、裁判を国民のものにすると言うならば、何故刑事裁判だけなのか?全く理由がわかりません。法定刑の重い犯罪の事件にだけ参加するのはどうしてなのかもわかりません。市民の関心が大きい事件ということなのか?それとも、全刑事事件ということになると市民(裁判員)の負担が大きくなるからという配慮なのか?どう考えても、裁判を国民のものにするという目的からは、法定刑の重い犯罪の刑事裁判だけに市民が参加するという発想は出てこないと思いませんか?
今月号では前号のつづきからということで、Aのポイントとした(5月号を見てください)刑事裁判での「疑わしきは被告人の利益に」の大原則を確立する必要があるということから考えてみましょう。
「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の意味について簡単にいえば、刑事訴訟法上、検察官が「合理的疑いを超えて」被告人によって行われたとされている犯罪事実を証明しない限り裁判所は被告人に有罪判決を言い渡すことはできないということです。これは冤罪を防止するためにも重要な原則です。日弁連のパンフレットによれば、これを確立するために市民によるチェックとして裁判員制度を導入しようとするようですが、はたして期待どおりの結果がでるのか不安です。裁判員は裁判官と対等の権限をもって審理に参加することとなっているようですが、詳細については今後決められるということで、具体的にどういった審理になるのかはわかりません。例えば、裁判官と裁判員の間で、証拠などについての見解や事実認定・量刑(どの刑をどれくらいにするのか)などの結論が異なったときには、裁判所として最終的にどのような見解や結論にするのでしょうか。もし、裁判官と裁判員で協議するとすれば、裁判官が納得するくらいな法の基礎知識をたまたま十分に備えている裁判員でない限り、まったくの素人である裁判員は裁判官の意見に従う(説得される)ことになってしまうのではないでしょうか。裁判員選任時に、裁判に必要な法知識や人権に対する考え方(多数決をもってしても奪うことができない権利があるなど)を十分説明するとしても、どのくらいの時間をかけて説明するというのでしょうか。
また、裁判員には知識だけでなく人権感覚ということも必要だと思います。市民感覚と同様に人権感覚も教科書を読んでおぼえるものではなく、日々の暮らしのなかで身につけるものだと思いませんか。私には、現在の日本では基本的人権に対する市民の理解がまだ十分広まっていないように思えます。たとえば、「疑わしきは被告人の利益に」と同様の言葉に「無罪の推定」というものがあります。これは犯罪者かどうかは裁判によってはじめて確定されるものであり、犯罪者であると疑いをかけられている被疑者(起訴前)・被告人(起訴後)は、犯罪者であることが確定するまでは無罪として扱われなければならないとする刑事司法制度上の大原則です。この言葉自体は小説やドラマなどで知っているとしても、日々の犯罪報道に接しているなかで常にこの言葉を意識して犯罪報道を見ている人はどれだけいるでしょうか。マスメディアが使う「容疑者」という言葉を「犯人」とほぼ同じ意味で捉えている人も多いと思います(被疑者逮捕の報道を見て「犯人が捕まってよかった」とか「こんな奴がやったのか」などと思う)。また、マスメディア自身も容疑者といいながら犯人扱いしているとしか思えないことが多々あります(松本サリン事件の河野さんが受けた扱われ方など)
このような状況で、今いわれているような裁判員制度の導入に私は甚だ疑問をもっています。私は市民が直接裁判手続に関与することを全面的に否定するものではありません。ただ、現在の状況で市民が直接裁判手続に参加すると、裁判官の判断に市民の目を通したというお墨付きを与える道具として利用されたり、ある特定の人や事件については同様な他の事件より重い量刑になってしまう(ドイツでも外国人の犯罪が多くなったときに外国人に対する量刑が重くなったらしい。慶應大の平良木教授が朝日新聞の「国民の司法参加」座談会で述べていた。去年の新聞ですが日付のところが切れてしまい判らないのでごめんなさい)ことなどの悪い面が前面に出てきてしまうのではないかと思っています。市民が直接裁判手続に関与するには、その前提としてすべての市民が敏感な人権感覚をもてる状況を整えることが必要だと思いますし、この前提無くしては「市民のための」ではなく「市民を利用した」他の目的のための司法改革になってしまうと思えてなりません。
さらに、冤罪防止ということで考えるならば、実際の冤罪事件にもとづいて多くの刑事法の研究者や弁護士さんたちによってかなり以前から指摘されている刑事司法での自白偏重・捜査機関の取調のあり方などといった改善されるべき問題がたくさんあります。意見書ではこれらの問題について一切触れられていません。このようなことでは裁判員であれ参審員・陪審員であれ市民が審理に参加したところで冤罪が防止できるとは到底考えられません。もし仮に、これらの問題点を市民の目からそらすために裁判員制度を導入するのであれば言語道断ですし、そうでなくとも結果的にそうなるのであれば市民のための司法改革ということはできないでしょう。
そして、国民の良識にもとづいた刑事裁判を実現するためというBのポイントについて考えてみましょう。裁判員は選挙人名簿から無作為抽出で選ばれるとされています。しかし、その選ばれた者が市民の意見・感覚を必ずしも代表しているといえるのでしょうか。裁判員の人数にもよりますが、たとえば男女の比率や年齢層の比率は無作為抽出後に修正するのでしょうか。また、被告人が裁判員に偏りがあると感じたときには裁判員を交替させることは認められるのでしょうか。さらに、被告人が裁判員の関与自体を望まない場合には裁判官だけでの審理は認められるのでしょうか。国民の良識にもとづいた刑事裁判とはどのような裁判なのか私には想像できませんが、みなさんはどうですか。
裁判員制度についてはわからないことだらけですが、今後の詳細な議論の過程ではもっと私たち市民にわかりやすく説明してほしいものです。意見書がいう重罪の刑事裁判では死刑判決に裁判員(私たち市民)が関与することもあります。先般の少年法改正のように結論を急いでろくな議論もしないということでは納得できませんよね。法科大学院構想につては次号で「亀ちゃんにも言わせてよ」!
みなさんは法科大学院構想に関心がありますか。司法制度改革の大きなテーマとなっているのですが、未来の弁護士・検察官・裁判官をどのように養成するかという問題なので私たちも無関心ではいられないと思います。そこで、この問題について考えてみましょう。
現在進められている構想から法科大学院を一言でいえば、法曹(弁護士・検察官・裁判官)養成の機関ということです。これに対して、既存の大学院(以下、法学研究科の場合)は研究機関であるとともに研究者を育成する教育機関です。ただ、近年各大学院において、従来の研究者育成とは違う各大学院独自のコースを設けて研究者志望の者以外にも門戸を開いています。つまり、法科大学院は司法に携わる「実務家養成機関」であり、既存大学院は次代の研究者(の卵)と法学をもっと深く探究したい者の教育機関であり研究機関、いわば「学問の府」ということです。実務家養成機関と学問の府の根本的な違いは、前者は実務家養成ということから、あくまでも現行法制度・法実務を前提にしてその中で「いかに」実務を行うかを修得することが主たる目的でありましょうが、後者はつねに懐疑的姿勢で研究に臨むため現行法制度・法実務を批判したり否定したりすることも多く、そこでの主たる目的は「なぜ」から始まりそれを探究する科学的(他者に対する説得力のある)方法を修得することだといえるでしょう。また、法科大学院は司法試験(法曹になるための試験)と結びつけて構想が練られていますが、既存の法学部・大学院は司法試験とは受験資格など直接結びつけられていません。
法曹関係者や法学研究者の個人的な話のうえでは、アメリカ型のロースクールのような法曹養成制度を日本でも導入しはどうかということが以前からいわれていたものと思いますが、ここにきて急速に現実化の動きが出てきた背景には色々な事情があるようです。この点については、椛嶋裕之弁護士が法律時報増刊・シリーズ司法改革Uという法律雑誌の論説(41頁以下)でわかりやすく整理してあるので、それを参考に要点を挙げると次のようになります。(1)法曹人口大幅増加の要求。(2)大学政策の一環。(3)大学運営の事情。(4)法曹一元化への基盤整備。(5)司法修習制度への批判。(6)現行司法試験制度への批判。
(1)は自民党や経済団体連合会も要求しているところであり、市民個々人が考えている法曹増員と同じ観点からの要求によるものか注意する必要があると思いますが、それとは別に、市民のために法曹増員するとしても現在の司法修習(司法研修所も)の容量が不足することから大幅増員が困難であるため法科大学院でより多数の養成を可能にしようという考えです。(2)は文科省(文部省時代から)が進めている大学改革の一つにある大学院重点化と結びつけた議論です。(3)は国立大学の独立行政法人化や少子化による各大学の厳しい生き残り競争が予想されることから法科大学院設置によって大学の生き残りを図ること。そして、司法試験受験生の「大学(の授業)離れ」や「ダブルスクール化(大学と予備校)」といわれる状況により大学での法学教育が空洞化していることへの対応などという大学側からの議論です。(4)は法科大学院を弁護士養成を主眼とした制度にして法曹一元(主に弁護士から裁判官を登用する)の前提条件を整えようとする観点です。(5)は法曹養成を現行の司法修習から法科大学院へシフトさせることにより最高裁管理下にある司法修習制度を解体しようという観点に立つもので(4)とともに主として弁護士会側からの議論です。(6)現行の司法試験は「点」による選抜、いわゆる「一発勝負」ですが、(3)で指摘されている大学離れなどによる受験生の試験テクニック重視と法学部教育の空洞化の弊害を解消するため「プロセス重視」の法科大学院で過度な競争を避けつつ、司法試験合格者の増員と質の維持を図るという考えに立つものです。
このように、法科大学院構想の背景はさまざまであり、構想の先行きは不透明です。具体的な内容も提示されていない状況で2004年開設といわれていますが、どうなることでしょうか。
法科大学院構想で最初に感じた疑問は、新司法試験の受験資格を法科大学院修了とするということについてでした。上に挙げたように「点」でなく「プロセス重視」の司法試験を目指すということですが、現行司法試験はそんなに悪いものでプロセス重視を掲げる新司法試験は良いものなのでしょうか。現行司法試験はたしかに一発勝負の試験であるけれども受験資格については年齢・学歴・国籍などに関係なく誰でも受験できます。短期間で合格するのに越したことはありませんが、受験勉強はそれぞれが時間的に自分のペースですることができ、各自の経済的事情に応じた方法で受験勉強できます。法科大学院設置希望の各大学の試算によると年間授業料は150から200万円ぐらいと考えられています。つまり、新司法試験受験資格として法科大学院修了のみとするならば、学歴条件の他に経済的条件も含まれるということになります。構想推進者は、奨学金の充実により経済的に恵まれない者でも入学できるようにするといいますが財源はあるのでしょうか。既存大学院ですら奨学金が充実しているとは院生の誰もが思っていない状況です。もちろん、なかには経済的に恵まれた環境下で大学院にきている院生もいますが、経済的に苦労している院生も少なくありません。
前号では、法科大学院の授業料が高額になる可能性が高いことから、これにより法科大学院修了を司法試験の受験条件とすると、経済的に恵まれない者は司法試験受験ができないことになるという指摘をしました。この問題を奨学金の充実によって解決するには財源があるのかということは前号でも述べましたが、さらにいうと、院生向けの日本育英会の奨学金も私が院生の頃は無利子貸与のみであったのが、今は有利子貸与の奨学金が登場しています。これは日本育英会が財政的に厳しい状況にあるためです。この状況のなかで、どこが奨学金支給母体となるのか疑問に思っています。それに、授業料相当分のみ奨学金を受けても生活費はどうしろというのでしょうか。バイトする時間なんて法科大学院生にあるのでしょうか。生活費分まで奨学金でるの?
つぎに、「点」ではなく「プロセス重視」ということについての疑問です。プロセス重視というからには、法科大学院修了者のほとんどが法曹資格を得られるような制度にしなければならないと思います。しかし、ほんとうにそうなるのでしょうか。近時、各年の司法試験の合格者は約1000名です(私が大学生の頃は約500名)。法科大学院導入後の新司法試験では合格者を段階的に約3000名程度に増やすことが検討されているようです。これでも現在の受験者全体から見れば10数%程度です。仮に現在の受験者全員が法科大学院に入学するとすれば、大半の者を落第・退学にしない限り(高額の授業料をとる以上現実にはできないでしょう)、修了者の7・8割どころか5割にも遠くおよばない合格率となってしまいます。これではプロセス重視の理念に反することになるのではないでしょうか。
また、法科大学院の入試段階でふるいを掛けることも予想されますが、これは現行司法試験の極端な低合格率(過度な競争)とその弊害といわれる受験テクニック偏重の問題の場が、司法試験から法科大学院入試に移るだけで根本的な解決とはいえないのではないでしょうか。そして、大学と司法試験予備校に同時に通う「ダブルスクール化」(前号の「なぜ法科大学院構想が出てきたのか」を参照してください)に対応しようという大学側にとっては意味のないことだと思います。なぜならば、法科大学院進学希望者は、結局、大学在学中から予備校に通って受験勉強をしなければならないので、現在の状況と何も変わらないということになるからです。
法科大学院をつくって高度な専門性を備えた若手法曹を育成しようということ自体は決して悪いことではないと思いますが、司法試験とセットで構想を練って誰にメリットがあるのか解りません。
すでにご承知のことと思いますが、司法試験は法曹資格を得るための資格試験です。実際には司法試験合格後、司法研修所に入所し、研修所と各地の裁判所・検察庁・弁護士会での司法修習を終えて法曹として活動できることになります。
ここで私がかねがね疑問に思っていたことは、なぜ司法研修所は一つしかないのかということです。資格試験というものは、ほんらい、ある業務についてその業務を行うのに必要な能力を備えているのかを問う試験であるはずです。つまり、一定の基準以上であれば何名であろうと合格であり、反対にその基準を満たすものが誰もいなければ合格者なしということもあり得るのです。ところが、司法試験は上から数えて何番目という基準で合格者が決まっています。そして、この何番目というのは司法修習の受け入れ態勢(司法研修所の容量など)が根拠になっているようです。ですから、司法試験に不合格になったからといって必ずしも司法研修を受けるに必要な能力を備えていないとはいえません。たんに司法研修所を増設するだけで解決するという問題ではないのでしょうが、司法修習の受け入れ態勢を理由に必要な能力のある者たちを門前払いすることがないように、現行の司法修習のあり方から見直すべきではないでしょうか。
一定の基準をクリアできれば成績順位に関係なく必ず法曹への道が開けるのであれば、現行の司法試験制度でも過度な競争はなくなるのではないでしょうか。ただ、合格基準を誰がどのように決めるのかということは重要な課題となります。
法科大学院ではどのようなことをするのでしょうか。今の段階ではっきりしていることは、少人数によるゼミ方式でのケーススタディやソクラテスメソッド(対話形式)を中心にした授業を行うということです。しかしこれは、司法試験予備校でも行うことは可能ではないでしょうか。学部教育でもある程度は可能だと思います。法科大学院でなければできない授業とはどういう授業になるのでしょうか。
結局、前号で整理した法科大学院構想の背景のうち文科省の大学政策と大学運営事情の点を除けば、現行司法試験制度でも合格者の人数枠廃止か大幅緩和とそれにともなう司法修習制度の抜本的見直しによって、ほとんどその要求に沿えるのではないでしょうか。そうであるならば、法科大学院でなにをするのか再検討するべきだと思います。
「亀ちゃんにも言わせてよ」をいつも読んでいますよという読者の方からお便りをいただきました。お便りありがとうございました。それは、法科大学院構想について、まだよくわからないというお便りでした。具体的には、(1)プロセス重視だと、なぜ修了者のほとんどが法曹資格を得られるべきなのか、そして質より量になるのではないか、(2)司法研修所と法科大学院構想とはどんな関係があるのかもっと詳しく知りたい、(3)大学や大学院での法学教育はどうなるのかなど、前号までの説明ではわからなかったので、もっと詳しく説明してくださいとのリクエストでした。そこで今回は、お便りにあった質問を中心に法科大学院について、もう少し「亀ちゃんにも言わせて」ください。
「点」による選抜として批判されている現在の司法試験は結果(試験)重視ということができます。つまり、試験に合格すれば法曹資格を得られる(実際には司法修習後)ということです。これに対して、プロセス重視というのは一定のプロセス(過程)を踏んだことを重視するということです。つまり、法科大学院(一定のプロセス)を修了したことが重視されるのであるから、このプロセスを踏んだ者は法曹資格を得られるはずということになります。そこで、プロセスを踏んだ者の多くが新司法試験(法科大学院修了後行うことが予定されている)に不合格となり法曹資格を得られなければ、実質的には結果(試験)重視と同じことになってしまいます。そのため、前号で述べたように「プロセス重視というからには、法科大学院修了者のほとんどが法曹資格を得られるような制度にしなければならない」ということになるのです。
そして、お便りにあった「質より量になるのでは」との疑問についてですが、この点については、実際には、どうなるのかわかりません。司法試験合格者の増員と質の維持を図るためにプロセス重視の法科大学院構想が考えられたのですが(前々号参照)、法科大学院の設置基準やカリキュラム・新司法試験の内容などが具体的に決まっていないので今後の議論を待つところです。しかしながら、ここで考えさせられるのは、一体何が求められている「質」なのかということです。法実務に携わるのに必要な能力という意味であるならば、それを維持するために資格試験である司法試験があるのであり、新司法試験においても同様であると思います。
●司法修習(研修所)と法科大学院構想は何か関係しているの
これについては前々号で簡単に触れましたが、法曹人口の大幅増員をするには現在の司法修習(司法研修所)では容量不足です。そこで法科大学院をつくって多数の養成を可能にしようという考えがあります。それと、現行の司法修習が最高裁の厳しい管理下に置かれている(管理主義的)ことへの批判から法科大学院を現行司法修習制度解体の足掛かりにしようという考えがあります。
ところで、これらの問題を解決するために法科大学院が本当に必要なのでしょうか。法科大学院修了者は新司法試験に合格後、司法修習を受けることになるとされています。そうであるならば、何のために法科大学院を設けるのでしょうか。結局、司法研修所を増設するなどして受け入れ人数を増やさなければ、多数の法科大学院修了者を受け入れることはできません。法科大学院が無くても司法修習の容量を増やせば済むことではないでしょうか。また、最高裁管理の司法修習制度が残るのであれば司法修習の現状はまったく変わりません。法科大学院が無くても司法修習制度の在り方は変えることはできるのではないでしょうか。そもそも司法修習の在り方については、法科大学院がどうであるということとは別個に市民を含めた議論の場で、法曹三者はそれぞれどうかかわるのか、市民はどうかかわるのかを話し合うべき問題だと思います。現在の司法修習に問題があるのであればそれを正面からきちんと議論すべきです。それをしないで法科大学院構想を持ち出されると、何か問題をごまかすために法科大学院構想を利用しているのかと思ってしまうのは私だけでしょうか。
●法学教育は大丈夫か
私は、一般に、人権意識・感覚というのは、誰かに教えてもらって身につくものではなく、日々の他者との出会いや別れや交流のなかでじょじょに形成されていくものだと思っていますが、お便りの方の心配は未来の法律家たちに大学・法科大学院ではどのような法学教育をするのかということだと思いますので、その点に絞って述べます。法は解釈や運用を誤れば重大な人権侵害を引き起こすこともあります。表面的形式的解釈・運用による過ちを犯さないためには、なぜ人権保障が叫ばれてきたのか、法はどのように生成され発展してきたかなどを知る必要があります。これらを知るには、法哲学・法史学(法思想史・法制史)・法社会学といった基礎法学といわれる学問の研究成果から多くを学ぶ必要があります。しかし、これらは直接司法試験科目ではないからか、多くの法学部では選択科目か選択必修(必須)科目になっているます。そのため全く学ばずに卒業する者もいます。いつの間にか大学が司法試験(その他の資格試験含む)の予備校化していたのではないでしょうか。新司法試験合格率競争になれば法科大学院が同じ轍を踏むのではないか心配です。大学の存在意義から問い直さないと市民(中心)社会の法学教育は危うい気がします。
私たちの生活の様々な場面で数字に出くわすことはよくあることです。そのなかでも、何らかの説明を受けるときに数字を使って説明されると非常に説得力があると感じられるのではないでしょうか。少年法改正前には報道で「警察庁によると」や「犯罪白書によると」などとして、統計を挙げて「少年非行が増加している」だとか、「少年による凶悪事件が増加してる」といったことがよく目につきました。私の友人の中でも日頃このようなことに無関心な人たちですら「少年非行って増えているんでしょ。」などといっていたくらいなので、みなさんもそのような報道を憶えているかと思います。「昨年に比べて○○人増加」や「前年比○%増」などといわれると細かい説明を聞く以前に「ほう、そんなに増えているのか」などと思ってしまいませんか。でもそう思う前に、お茶でも飲みながら亀ちゃんの言いたいことを聞いてください。
犯罪学や刑事政策を学んでいる大学院生がゼミなどで一般的に利用している官庁統計には次のようなものがあります。警察庁による 『平成○○年の犯罪』、法務省による『検察統計年報』・『矯正統計年報』・『保護統計年報』、最高裁による『司法統計年報』などです。手短に説明すると、『平成○○○年の犯罪』は警察段階における統計資料(刑法犯の認知件数や検挙人員など)、『検察統計年報』は検察庁で取り扱った刑事事件の統計資料(事件の受理状況や起訴状況など)、『矯正統計年報』は刑務所・拘置所・婦人補導院・少年鑑別所・少年院の被収容者に関する統計資料(収容人員や再入状況など)、『保護統計年報』は中央更生保護審査会・地方更生保護委員会・保護観察所で取り扱った犯罪者と非行少年の更生保護に関する統計資料(保護観察や恩赦の状況など)、『司法統計年報』は裁判所が取り扱った事件について民事・行政編、刑事編、家事編、少年編の4編にわけて整理集計した統計資料(有罪無罪等の終局処分状況など)をそれぞれ収録している。
しかし、これらの統計資料は各官庁が業務のために作成している資料なので、詳細であるけれどデータばかりが並んでおり、専門家でない市民にはわかりにくいとおもいます。もう少しわかりやすいのもとしては、『警察白書』や『犯罪白書』があります。これらは上記の統計資料を抜粋・要約・整理したものです。刑事司法全体の流れを見渡すのであれば『犯罪白書』の方が適当でしょう。また、『犯罪白書』は犯罪動向や犯罪者処遇状況のほかに各年ごとにあるテーマを設定し、それを特集として分析を加えています。
●犯罪発生件数と暗数
はじめにもいいましたが、犯罪や少年非行が増加しているとかいう報道を目にすることはよくありますよね。では、上記の統計資料を手に取れば、一見しただけで犯罪や少年非行の増減がわかるのでしょうか。ちょっとまってください。犯罪について統計資料を読み解く上で、まず私たちが認識する必要のある重要なことがあります。それは、犯罪統計には暗数がつきまとっているということです。暗数とは実際には存在していても統計上に表れてこない数のことです。つまり、犯罪は実際に起こっていても何らかの理由で統計上は犯罪として数字になっていないことがあるということです。その原因としては、大きく2つあります。1つは、本来の意味での暗数ともいわれるもので、犯罪が発生しても警察が認知していない場合です。これは、犯罪が行われても誰も気づいていない(被害者さえも)ときと、被害者等が示談や謝罪などの非公式な方法により問題を解決し警察に被害を届け出ないときです。また、犯罪を警察が認知したが未だ逮捕に至っていない場合にも検挙件数・検挙人員に表れてきません。これも本来の意味での暗数とされます。そして、もう1つは、法執行機関が生み出す暗数といわれるものです。これは、法執行機関の裁量権行使の結果として生じるものです。たとえば、アメリカでは一般に、下層階級(貧困)に属する人や黒人をはじめとする有色人種に対しては厳しく取り締まり法執行するが、中・上層階級に属する白人には寛大であるといわれています。そのため、刑務所収容者の大部分を黒人とその他の有色人種が占めている状況です。このような差別的扱いからも暗数(一定層の白人は黒人と同じ犯罪行為をしても犯罪として扱われない)が生み出されます。
ここでわかることは、警察等の官庁統計といえども、必ずしも実際の犯罪発生件数の増減を正確に反映していないということです。警察の統計でいえば、刑法犯の認知件数や検挙人員の増減を知ることはできても、「犯罪」件数を知ることはできません。
以上の点を注意するならば、もし、新聞に「警察庁によると犯罪認知件数が過去最高」となっていたとしても、実際には犯罪件数が横ばいでも非公式な解決方法が機能しなくなったり被害者の意識が司法手続きを求める方向へ大きくシフトした結果警察への被害届が増加して認知件数が増加した可能性もあるので、「犯罪認知件数過去最高」=「犯罪件数過去最高」などとは即断しないでください。
☆統計を見るときに注意していただきたいことは、まだあります。
「凶悪犯」という言葉をよく目にしたり耳にしたりしますよね。この言葉からみなさんはどのような犯罪をイメージしますか。殺人?強盗?その他にもあるのでしょうか。言われてみれば何だろうと刑法の条文を眺めてみても凶悪犯という用語は見あたりません。新聞等で「昨年に比べて凶悪犯が増加」などという場合は警察の統計や犯罪白書の数字をひいて述べられているので、まずは警察白書をみてみましょう。平成13年版の凡例を読んでみると次のようにありました。凶悪犯に分類されている罪種は殺人・強盗・放火・強姦の4つです。そして、暴行・傷害・脅迫・恐喝・凶器準備集合といった罪種は、一見凶悪そうな気もしますが、粗暴犯に分類されています。
しかし、犯罪白書をみてみると、たとえば平成13年版の第1編にある「犯罪の動向」のなかの「主要刑法犯の動向」では、「凶悪犯(殺人、強盗)、粗暴犯(傷害、暴行、脅迫、恐喝)、…」とありました。ここで凶悪犯は殺人・強盗を指しているのです。警察白書で凶悪犯に分類していた放火は誘拐や文書偽造などと同じ扱いで「その他の刑法犯」に、強姦は「性犯罪」に分類しています(強盗強姦は強盗に分類)。
たとえば、統計上凶悪犯が増えているといっても、どの統計書を使っているのかによってどの罪種が増えているのかが違うことに注意しなければなりません。統計資料をみるときは、凡例や図表等の注記を必ず読むようにしましょう。それでも不明なときには、作成している官庁へ問い合わせるといいでしょう。また、殺人のみが増えているのか、強盗のみが増えているのか、両方とも増えているのかということも注意する必要があります。グループ分けしている場合には、その中の一項目のみが増加しても数字の上ではグループ全体が増加しているようにみえてしまいます。大きなグループ分けをして動向を示している場合には、さらに細かく内容(各罪種に分類されている罪名も)をみるようにしましょう。
毎年年末頃に、警察庁のまとめによると今年の交通事故死者数は〇〇人という報道がありますよね。警察白書では、「交通事故の発生から、24時間以内に死亡した死者数」を交通事故死者数としています。つまり、医療機関の救命措置などにより24時間は持ちこたえたがその後に死亡した者は、統計上交通事故死者にはカウントされないのです。統計上の交通事故死者数が減っていても実際の交通事故死亡者数は減っていないかもしれません。(警察白書では、交通事故発生から30日以内に死亡した死者数をあらわす交通事故30日以内死者数というのもあります。)また、警察統計の認知件数は「警察において発生を認知した事件の数」となっていますが、「悪質商法事犯では、被害届の数が認知件数及び検挙件数となるため、たとえば豊田商事事件の場合には、詐欺罪の認知件数がその年に限って激増するという現象が生じたのである」(藤本哲也『刑事政策概論 全訂三版』23頁)との指摘もあります。図表に表れる数字を眺めるだけでなく、その意味を検討しなければ現状をより的確に把握することはできません。
これらの点も私たちが統計をみる上で留意しなければならないでしょう。各統計の計上方法については、それぞれの凡例・注記をみることになりますが、不十分(わかりにくい)か説明が記載されていないことが多いです。警察白書や犯罪白書は一般の公立図書館でもみることができるので、市民への情報公開の観点から専門家にしかわからないようなものではなく、一般の人(できれば高校生)にもわかる統計書を作っていただきたいものです。
無期刑の者はどのくらいの期間が経過すると仮出獄するのかがときに話題になります。2000年少年法改正のときも話題になりました。当時の報道番組などでは「だいたい〇〇年で」とか「平均して〇〇年で」などと、まことしやかに語られていた憶えがあります。報道関係者はどのような資料をみたのでしょうか。犯罪白書の仮釈放に関する頁を繰ってみると、「無期刑仮出獄者の行刑施設在所期間別人員」という表があり、仮出獄を許可された無期刑囚が何年刑務所にいたかが表になっています。この表で最長期は20年を超えるとまとめられているので、このままでは平均は計算できません。では、20年超の者の具体的年数を調べたとしましょう。それでもこれは、仮出獄を許可された者の平均であって許可されていない者も含む無期刑囚全体の平均は計算不能です。実際には、仮釈放の許可を申請してもすべての者が認められているわけではありません。四半世紀以上も刑務所にいる受刑者もいます。仮出獄が許可された者の平均在所期間をとりあげて無期刑が甘いか厳しいかなどと議論をしたところで無期刑の現状を無視した議論となり意味のないことになるとおもいます。ですから、たとえば「無期になってもだいたい14年くらいで社会に出てこられる」といわれても「へぇー、無期は14年くらいなんだ」とおもったりしないようにしましょう。
統計資料をみる際のポイントを簡単に示しましたが、統計を使って議論をするときは、そこに書かれている数字の意味を的確に把握してください。そうでなければ、せっかくの議論が無駄な時間になってしまうし、誤った結論に達してしまうでしょう。それとデータはあくまでも1つの目安です。目先の数字の増減にのみ拘泥すると近視眼的政策論になるようにおもいます。また、そうなると基本理念が疎かにされるのではないか心配です。先般の少年法改正がそうだったようにおもいます。
11月8日付朝日新聞に「名古屋刑務所 受刑者に暴行認める」の記事が出て以来、他紙やニュース番組等で名古屋刑所内受刑者暴行事件は大きくとりあげられています。この事件について新聞記事から整理してみましょう。今年2月、恐喝罪で懲役2年4月の刑が確定し名古屋刑務所に収容されていた30歳の男性受刑者が、2月に収容されてから事件発覚まで数回にわたり革手錠をかけられたり、保護房に入れられていました。この受刑者は4月に刑務作業中に服に付いたものを拭ったしぐさがサボリと見なされ懲罰を受けたことから、これを不満として名古屋弁護士会に人権救済の申し立てを行っていたということです。そして受刑者は4月以降の受けた懲罰内容・人権救済申し立て経緯・刑務官からの言いがかりを受けたことなどをノートに書き留めていたところ、9月18日に副看守長がこれを見つけその場で破棄したうえ、受刑者は人権救済申し立てについて執拗に聞かれ、取り押さえられ保護房へ連行され革手錠を装着されたということです。9月以降弁護士会の受刑者・刑務所双方から事情聴取するなどの本調査の話が具体化した頃から、刑務官による人権救済申し立ての取り下げを暗に迫る圧力があったということです。そして9月25日午後8時過ぎに報道のきっかけとなった事件が起きました。看守長らが面接室で受刑者と面談し、申し立てを取り下げるよう強く迫ったが断られた後、受刑者を保護房へ収容して革手錠で必要以上にきつく締め上げ、手術を要する腹部内出血(約40日の加療必要)を負わせたのです。保護房へ連行し革手錠をしたのは、面接室で受刑者が激高したので取り押さえようとしたが暴れ続けたためとされています。これにより、看守長・副看守長を含め5名の刑務官が特別公務員暴行陵虐罪の疑いで逮捕されたのです。
この事件では一般に馴染みのない用語がでてきます。まず保護房です。その名からは受刑者が興奮などして自傷他害のおそれがある場合に保護するため設けられた房と考えられるでしょうが、必ずしもその意味で使っているのではないようです。元受刑者によると彼らの間ではビックリ箱(隠語)・拷問房などともよばれる懲罰房だということです。すなわち、刑務所の中の刑務所ということです。詳しくは、近時出版されている刑務所に関する本に譲りますが、それらによると、だいたい2M×3Mくらいの窓のない部屋で、天井に電灯と監視カメラ、床には排便排尿用の穴があるのみで他は何もなく、周囲は体をぶつけてもケガをしないような柔らかい素材が使われているとのことです。革手錠は、両腕と胴(ウエストのあたり)を同時に固定する革製ベルトです(11月9日朝日新聞に写真掲載)。腕は両腕そろえて前か後ろ、片腕ずつ前後に固定できるようになっています。革手錠については、監獄法19条1項「在監者逃走、暴行若シクは自殺ノ虞アルトキ又ハ監外ニ在ルトキハ戒具ヲ使用スルコトヲ得」の「戒具」の一種とされています。監獄法施行規則48条1項には戒具の種類として「鎮静衣」・「防声具」・「手錠」・「捕縄」があり、同2項により「戒具ノ製式ハ法務大臣」が別に定めることになっています。
革手錠をされ保護房に入れられる受刑者は「股割れパンツ」を履かされます。これは、革手錠のため両手が使えないので、そのまま排便排尿できる股下部分が縫い合わせていないズボンのことです。そして、上記した便器のない排便排尿用の穴に用をたすのです。また、食事はドアの下部にある食器孔(食器出し入れ用の小窓)から配給されたものを手を使わず器に顔を突っ込むようにして食べる(いわゆる犬食い)ということです。これらはすべて監視用カメラで見られ、ビデオにも撮られています(適切な保護のためということです)。そのため部屋の電灯はどの程度の明るさか知りませんが、24時間消えることはないようです。一般市民の感覚で見れば、まさに元受刑者がいう「拷問房」とおもいませんか。それとも、犯罪者だからこの程度で文句言うなとおもいますか。なお、革手錠について98年に国連人権規約委員会は日本政府にたいして、残虐で非人道的ということでその使用に懸念を示す勧告を行っています。法務省もこれを受けて99年には通達を出して適正に使用するよう指示しています。その後、革手錠の使用は全国的に激減しているようです(名古屋では3・4年前から再急増)。しかし、適当な代替手段がないというのが政府の主張であり、使用自体をやめることには至っていません。
事件発覚後の11月12日、閣議後に行われる定例記者会見で森山法務大臣は「…ほかには同じような事件があるのではないかというご趣旨のご質問ですけれども、その点については、矯正局で各受刑施設の実態を調べまして、同様のことが他であったということは聞いておりません。…」とした後、記者から「確認しますが、矯正局の調査の結果、同じような事案は他の刑務所とかの矯正施設ではなかったということなのでしょうか。」と念を押されて「ええ、そういうふうに聞いております。」と発言していました(法務省HP「大臣閣議後記者会見の概要」より)。
ところが、事件報道後ほかの刑務所で虐待(暴行)を受けたとする元受刑者がいることが報道されています。11月10日付朝日新聞では、今年4月に岡山刑務所で刑務官から病院で治療を受ける程度の暴行を受けたとして受刑者が岡山西署に告訴し刑務官が書類送検されていたとありました。また、23日付朝日新聞では、昨年10月に高松刑務所において革手錠をされたまま保護房内で大ケガをするほどの暴行を受けたとして元受刑者が刑務官10名を地検に告訴したとありました。そして、名古屋刑務所では、今回の事件とは別の元受刑者(今年7月出所)も刑務官ら11名以上を公務員特別暴行陵虐致傷にあたるとして名古屋地検に告訴しています。
また、「監獄人権センター」などの市民団体や刑務所問題に関心のある研究者によってすでに指摘されてはいましたが、刑務官による受刑者虐待は最近始まったことではありません。11月9日付朝日新聞には、87年から約2年間服役していた男性の目撃した話として、革手錠をしての暴行だけでなく、頭から麻袋をかぶせて暴行を加えたり、バケツで水を浴びせるなどの証言が載っています。これだけでも十数年前から名古屋刑務所では虐待を行っていたと考えられます。他の刑務所などの行刑施設でも同様の証言はずっと以前からありました。しかし、一方的な元受刑者の証言のみで、その話を裏付ける客観的な証拠等がないため(上述のように名古屋の事件では虐待を記録したノーが刑務官に破棄された)一般の市民が目にする形で大きく取り上げられてきませんでした。
こうしてみると、上記「同様のことが他であったということは聞いておりません」との法務大臣のコメントは何だったんでしょうか。受刑者も人間です。これは紛れもなく人権問題です。なのに、刑務所側の元締めである矯正局(行刑施設を管轄する)の内部調査をもって、聞いているとか聞いていないとか、まるで他人事のようなコメントにはあきれるばかりです。いやしくも法務大臣ならば、こと人権問題については自分のことのように問題にあたっていただきたいものです。法務大臣のコメントからは役所の失態を批判するメッセージを感じられても、虐待を受けた者へのメッセージは感じられません。私の感じ方がおかしいのでしょうか?