言葉の果つるところ −少年法改悪に対抗して−
少年法が再改悪されようと画策されている。我国の少年非行政策が一定の方向に大きく転換されようとしている。これは一体何を意味しているのであろうか。
●少年法理念の大きな後退
第一に、少年非行に陥った少年の立ち直りを教育と福祉の力をもって行うとした、感化法や少年法の理念の大きな後退を意味する。子どもにとっては、大人社会から自分があきらめられる存在であるという大人社会からの「否定・放棄」がつきつけられることを意味する。大人から信じられないということは、「自分の出口、可能性が閉ざされている」こと、自分の存在の価値が認められていないことを意味する。「お前を今後、力で操作する」と宣言されることを意味する。
少年法の「改悪」は少年司法や児童福祉や教育の現場に大きな影響をもたらす。福祉や教育がその成果を生み出せるかどうかの鍵はその現場において、一人一人の「言葉」(内なる言葉も含めて)が重みをもって生きているかどうかにある。一人一人の少年とワーカーの間に交わされる「言葉」は単なるコミュニケーション手段ではなく、想いのかけ合いであり、生命活動そのものである。この言葉の力をあきらめ、強制力(鍵や法律)が優先されるに比して、「福祉と教育」は死滅の方向に向かう。
福祉と教育のありようは一国の文化そのものであるが、文化の基礎は一人一人の生命活動が自然の循環と人のつながる力に支えられているところにある。このことが衰退していくとき、人々はどんどん貧しくなる。文化の貧困は非行を防ぐどころか、ますます増大させることになる。「強制力」に依存するところに少年の未来はなく、教育や福祉のワーカーの力もどんどん弱くなり、子どもたちと関わっていくことがより困難になる。つまり、非行少年に「そんなことは止めよう!」と働きかけても効き目がないということである。効き目がないから、「当学校あるいは施設において処遇することは少年のために適切ではない」という意見書を書くということになる。そういう意見書が増えていくことを示す。
●「システム」への送致
第二に、一人一人の生身の個々人に息づいている想念としての言葉がシステム(行動と生活の体制化)に奪い取られることを意味する。非行行動を生み出している少年の心的外傷や、生命活動の障害性としての不安や緊張や自己否定感や不信感などと一対一で向き合い、共感しながら受け止め、それら障害性を生み出している原因としての環境改善への働きかけ、立ち直り、自立への支えづくりなどのことに、けんめいに取り組む仕事が一つ一つ消えていくことを意味する。カウンセラーは増えるがソーシャルケースワーカーは増えないし、その持つ理念が危うくなる。従って、ワーカーの専門的力量も低下するので、「問題児童」の被害性は後退し、結果としての「問題性」が前面にクローズアップされ、問題分析が「専門的」に消化され、マニュアルに従って、少年は「システム」の中に送りこまれ、処理される。
●「人生」からの排除
第三に、少年は「人生」から排除されるという流れが強まる。
子どもの権利条約においては、特別な場合を除き、親、兄弟から引き離されるべきではないこと、できるだけ家庭に近い形で養育されるべきことが示されている。又、障害者福祉におけるノーマライゼーションの理念は全世界に定着しつつあり、このあり方は当然児童福祉にも適用されるべきである。しかし、家庭生活、学校生活という「日常の世界」から子どもたちを引き離し、「施設」という非日常へと強制的にひっぺがしてしまうあり方が、少年法の改悪によって強まることは必須である、子どもたちが「自分らしく人生を紡いでいく」ことを確保、実現していくことこそ、社会の責務なのだが、自らその責務を放棄しようとしている。
地方分権をうたいながら、一方で地域の教育力、福祉力を衰退させようとしている。
今、必要なことは、強制力(・・・)の強化やシステムとしての「専門性」の強化でもない。立場や義務や責任を声高に叫ぶことでもない。一人一人の子どもたちの「つらさや苦しさ」をしっかり受け止め、その回復を図ること、一人一人の子どもの想いを言葉化して「意見」をしっかり聴くことを通して、権利を守ること、生活の支援を行うこと、学びと遊びの復権を図ること、そのことによって子どもの人生(・・)を応援していくことではないか。そのためにも少年法の改悪の動きには対抗していかねばならない。
ドイツの良心と言われるワイツゼッカーは「過去に盲目である者は、今に対しても盲目である」と述べているが、子どもたちの今(訴え、叫び)に盲目である者は未来に対して盲目(無責任)であると言わざるを得ない。
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