触法少年問題に関する一私案
弁護士の立場より

1. 触法少年は、児童福祉の領域で支援されるべきである。
 現在、触法少年(14歳未満)の調査、処遇に関する少年法「改正」法案が法制審議会少年法部会で審議中であるが、これについては、児童福祉制度と、少年司法制度との、それぞれの役割、目的を見失い、児童福祉の領域に警察権力の絶大な影響強化と、矯正教育的処遇の導入をはかろうとするものであって、全く賛成できない。
 14歳未満という、いまだ自我の成長途上にあり、家族のもとでの安心した生活の場が不可欠である子どもたちにとって、触法という行動は、家庭機能の不全や虐待と表裏一体の関係にあるといっても過言ではない。この子どもたちには、何よりもまず児童福祉法のもとで、子どもを取り巻く環境調整により、また不足している家庭的条件を補完することにより、育ちを支援していくことが、求められている。
 この支援の姿勢は、触法事実を調査する段階から、貫かれなければならない。犯罪事実の存否や動機の確定の手順そのものが、子どもの心理や生育環境、家族の状況などに深く配慮されたものでなければ、事実も動機も明らかにはならないのである。
 またやむを得ず、触法少年を家族から引き離して、処遇する必要がある場合であっても、その手法は管理と指導による、拘禁を前提とした矯正教育としてではなく、いまだ人格の形成途上にある子どもに、できるだけ家庭に近い育ちの場を提供し、適切な愛情と支援を与えながら、自他の大切さを学ばせるものでなければならない。
 今般の少年法「改正」法案に反対し、そこに提起されている課題に対しては、触法少年に対する児童相談所や児童自立支援施設のあり方を、抜本的に改善するという方向をもって、対処すべきものと考えるので、以下に私案を述べる。

2. 児童相談所内に、触法事件対策班を設ける必要がある。
 触法事件だからといって、事実の存否がおざなりにされていいということはない。適切な処遇方針を立てていくためには、何が起きたのか、何故起きたのかを明らかにすることは、不可欠である。
 現在の児童相談所の児童福祉司にとっては、人命に関わるような被害が発生した事件、子どもの処遇に大きな影響のある事実を争う事件において、適正な調査を行い、事実を確定することは、非常に困難な課題となっていることは否めない。
 しかしだからといって、その調査を警察に行わせるべきである、ということには賛成できない。警察が、犯罪捜査として幼い子どもや関係者の供述をとったり、証拠探しをしたりすることは、冤罪を生み出し、さらに子どもの成長発達権の侵害となる結果をもたらすであろうことは、法律専門家ならずとも容易に想像できることである。
 他方で警察への調査権限の付与は、児童福祉法上触法少年の調査、処分を担当すべき児童相談所の力量不足を有力な根拠としているが、これはこれまで児童相談所の力量不足を放置してきた国の責任を転嫁するものであり、今必要なことは、触法少年は基本的に福祉の課題である、とする理念が現実に生かすことができるよう、児童相談所を強化することである。
 そこで児童相談所内に、近年虐待事件の深刻化に対する対策として設けられた、虐待対策班にならい、触法事件対策班を設けることを提案したい。児童福祉司として、また児童自立支援施設や養護施設で、触法少年の処遇に経験を持ち、虐待と触法事件との深い関わりについて理解を持つ児童福祉司を中心に、重大な触法事件については、対策班として事案に対応する。刑法、少年法、児童福祉法等の関係法令に精通し、また関係機関との連携ができるメンバーを、養成する必要がある。事実として、どのような事項について調査が必要なのか、どのような方法で調査ができるのかなどについては、法律専門家として弁護士も参加して、助言する。子どもや共犯者、家族、被害者らからの聞き取りは、子どもや大人の心理に詳しい福祉司や心理学者があたる。事案によっては、鑑定医の参加を求めることもあるだろう。
 このような対策班があれば、警察と同様な強制的な調査権限は持たなくとも、現在よりは、精緻な事実調査ができるようになるのではないか。少なくとも、犯罪の立件のための筋書きにそって、子どもの供述を作っていくような警察の調査よりは、子どもの真実に近い事実が明らかになるはずである。
 その調査の結果として、処遇方針を立て、また家庭裁判所への送致が必要であるかどうかも、判断する。現在のように、調査も尽くさないまま、右から左へ、家裁送致をするような現実は、あらためられるべきである。

3. 児童自立支援施設を、触法少年の処遇にふさわしく、抜本的に改善すべきである。
 児童自立支援施設は、児童養護施設と少年院のはざ間にあって、その存在意義自体を問われ、風前の灯にも例えられるような状況にあると言われている。
 しかし触法少年の多くが、被虐待児童であることが明らかである現実の中で、この子どもたちの処遇は、一般の児童養護施設には困難であり、また少年院の、自我が一定の発達程度に達した子どもを対象とする、拘禁を前提とする矯正教育には、なじまない。
 触法少年すなわち14歳未満の子どもは、いまだ家庭での子育てを必要とする年代なのである。家庭に力がなく、その責務を果たせないため、家族から引き離して育たなければならないとしたなら、少しでも家庭的な雰囲気の中で、育つことが必要なのである。育ちが困難な子どもたちに対し、特に手厚い監護と暖かい愛情のもと、虐待の傷からの回復、深い傷を抱えながら成長していくための知恵、人間関係の持ち方などを、身につけさせられる施設が必要である。それが、本来想定された児童自立支援施設の役割である。
 児童自立支援施設において長らく夫婦制がとられてきた背景には、そうしたニーズがあったからであろう。しかし現代では、夫婦制の展開は困難といわざるを得まい。しっかりと養成された職員が、適切な労働条件のもとで勤務する小舎制により、グループホーム的な施設を運営していくことが現実的であろう。ひとつの小舎に、5,6名の子どもが限度ではなかろうか。
 子どもたちにあたたかい共同の部屋とできるだけの個室が用意され、家庭に近い環境の中で、それぞれの問題性に応じて、育ち直し、学び直しができるように、カリキュラムが用意される必要もあるだろう。
 職員の養成は急務となる。多くの児童自立支援施設の職員は子どものケアの専門家ではない。何よりも、幼い子どもたちが、自暴自棄になって荒れる理由、触法行為に走る背景について、深い理解を持ち、その行動を受け止めながら、自傷他害行為をなくさせ、人間への信頼を回復させられる職員を育てなければならない。
 夫婦制の良さは、里親(養育家庭)制度として、残していくべきであろう。虐待について専門里親制度が始まっているのと同様に、力量のある夫婦には、触法少年の専門里親になってもらうということも、考えられる。施設処遇にはどうしてもなじめない、個別処遇を必要とする子どもを、担当してもらうということである。

4. 特別な医療や心理的ケアを必要とする子どものための、児童自立支援施設を設けるべきである。
 最近、家庭裁判所によって強制措置を伴う児童自立支援施設送致の審判が、次々と出されている。しかも長期にわたる強制措置を要請している。社会のバッシングに応えることが主な目的なのであろうが、同じ施設内にいる、他の子どもたちとの関係も憂慮されるからということも、ひとつの理由である。しかし、14歳未満の子どもを、長期間独房にも等しい隔離部屋に閉じ込めて、どうやって、その成長を支えることができるだろうか。
 医療少年院があるように、特別な医療やケアを必要とする子どものためには、そうした子どもたちのための、特別な児童自立支援施設を設けるべきである。敷地も建物も別の場所で、専門の治療ができるスタッフをそろえ、必要な医療や心理療法などを与えられるようにする。
 そこでは、完全な開放処遇は無理だとしても、施設内では、日常に近い生活が送れるような環境を、整備するべきである。
 そして、治療の必要がなくなったと判断された場合には、一般の児童自立支援施設に措置変更できるようにしておく必要もあるだろう。

5. 児童福祉予算の増額を
 虐待問題の深刻化、触法少年問題への関心の高まりの中で、これを解決するために、警察予算を増加させるという発想は、いうまでもなく誤っている。必要なのは、家族が子育てをできるように支援していくことであり、家族を失った子どもたちの権利保障のために、十分な手当てをすることなのである。
 上述した提案は、いずれも、十分な物的、人的資源が用意されなければ、実現しない。しかし、子どもたちの現実が深刻であり、これに対し対応しなければならないのであれば、児童福祉予算を、画期的に増額するしかないはずである。
 子どもの権利保障を求めていくためには、理念の浸透と共に、経済的基盤も必要なのだということを痛感する。北欧各国の子ども予算が国家予算に占める割合の高さは、それらの国の、本当の意味での豊かさを示すように思う。

6. 基本的なスタンス
 これまでも防衛予算、警察予算の増額には、歯止めがなく、これに対して児童福祉予算、教育予算は低く押さえられ、その結果として児童相談所も児童福祉施設も低いレベルの活動を余儀なくされてきた。それを既成事実とし口実として、児童福祉の分野に管理的強権的要素が持ち込まれようとしている。この国は、いったい何に、この国の未来を託そうとしているのだろうか、という想いを禁じ得ない。組することもできないほど、絶大なる権力を前に、ともすると、小さな保塁を守ることに汲々として、そこそこのところで妥協するしかないという考え方に陥りがちである。しかしその姿勢では、次の攻撃を受ければ、また保塁を削らざるを得なくなる。
 子どもたちの権利保障の推進のためには、どれほど絶望的な現実を前にしていたとしても、原理原則を崩すような、諦めの姿勢は禁物である。一旦その筋道のぶれを許せば、後退を許せば、どこまで筋道がぶれても、どこまで後退しても、とどめようはなくなる。
 しかし、子どもたちは生きていかなければならない。成長していかなければならない。その存在は、後退しようがない。その命の権利には、ぶれがありようがない。私たち大人が、自分たちの能力を過信して、子どもたちのために、一定の後退と引き換えに、一定の譲歩を勝ち取ったというような取引をしてはならない。子どもたちのためには、最善をめざし、最善を勝ち取る戦いしかないのである。
 どんなに困難であっても、子どもたちにとって、児童福祉の理念と制度を守ること、警察権力の支配を排することが最善であるのなら、その方向を堅持すべきである。

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