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少年法「改正」を考える連続学習会「子どもとどうかかわるか?」 Part3 非行と向き合うための対話 講師:非行と向き合うための対話 山下英三郎さん(元スクールソーシャルワーカー/日本社会事業大学名誉教授) 解説:いじめ厳罰化と少年法『改正』 佐々木光明さん(神戸学院大学教授) 参加者によるディスカッション:「少年法を生み出した理念って?」 日時:2013年7月20日(土) 18時00分 会場:文京シビックセンター 主催:少年法「改正」に反対する弁護士・研究者有志の会 共催:子どもと法・21 “検察官関与対象事件の拡大”と“刑の引き上げ”が盛り込まれた少年法「改正」法案が、近く、国会に提出される見通しです。6月に成立した「いじめ防止対策推進法」と、刑事事件化・厳罰化されていく少年法「改正」法案とは背景に深い関わりがあるように感じます。連続学習会第 3回目は、長年、スクールソーシャルワークに取り組んでこられた山下英三郎さん(日本社会事業大学名誉教授/日本スクールソーシャルワーク協会前会長)からお話を伺い、佐々木光明さん(神戸学院大学教授・刑事法/少年法)からコメントをいただきました。(印刷) 講師:山下英三郎さん 「いじめ防止対策推進法」のさまざまな問題 最近またいじめ報道が多くなされていますが、いじめの発生件数のグラフは凸凹しています。いじめ自殺報道が大々的になされた時は件数が増え、そうでない年は比較的少ない。大きく報道されるときには熱心に調査される結果、件数が増えるというわけです。 ただ、発生件数のデータから、いじめはかなりの数あり続けてきたこと、そして、いじめ自殺報道が大々的にあった 1990年代半ばや 2006年頃の警察の介入や出席停止といった様々な「対応」は何の効果もなかったことが分かります。それを「いじめ防止対策推進法」に明文化して何か変わるのか。防止対策推進にはならないでしょう。 まず、いじめの定義を「心理的又は物理的な影響を与える行為であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」としていますが、あまりに広すぎます。子どもたちにトラブルがあれば全ていじめとして挙げられ、その後の対応が非常に厳しいものになるわけで、子どもをいじめの状況から少しでも救い出すことにはなりません。いじめの定義は、世界的に「特定の子どもが長期に渡って繰り返し攻撃にさらされている状態」です。かつての日本もそうでした。定義を広くしたことで、却っていじめをぼやかしてしまいます。 また、この法律は、被害者はかわいそうな子、加害者は駄目な子という二項対立で捉えています。いじめの特徴は、加害者と被害者に入れ替わりがあり、傍観者が存在することで、これは日本に限らず海外もそうです。2つに分けることは無理がありますし、加害・被害の分断によって、子ども同士やおとなとの関係も断ち切ってしまうことになります。 更に、少年法「改正」の動きと連動し、いじめた子を厳罰に処する。いじめた子は必ず、精神的、身体的な被害体験を有します。被害体験を有する子に厳罰を与えることは怒りを増幅させ、新たな攻撃行動を生み出す可能性が大いにあります。 この法律は現象面だけを捉え、いじめが起きる背景について全く触れていません。強い者が弱い者を、多数の者が一人の者を攻撃するような、いじめを生み出す社会構造に触れず、「いじめは絶対許さない」と言っても絵空事です。構造の中で子どもが生きづらさや焦りを抱え、攻撃心を醸成したとき、自分や他者に向かう。攻撃の一つの現れがいじめであり、非行と言われる行動であるわけです。 アメリカでは萎みつつあるゼロ・トレランス 地厳罰主義は、90 年代半ばにアメリカで打ち出されたゼロ・トレランスを参考にしています。アメリカの学校での銃乱射事件増加への措置として、あらゆる武器を学校から一定の距離以内に持ち込んではいけない、絶対に例外を許さないというかたちで始まりました。それが徐々に拡大解釈されていき、2000年代になると、武器とみなされるものを持ち込んだ者は厳罰に処するとし、爪切りを持ち込んで退学処分や、喘息の子が酸素吸入ボンベを持ち込んで停学処分、小学校低学年の男の子がクラスの女の子にハグをしたら性的ハラスメントとして停学処分など、極端なことがあちこちで起きています。ゼロ・トレランスの効果を肯定的に論ずる論文はほとんどなく、弊害が大きいと言われ、去年 9月末、クリスチャン・サイエンス・モニターという大きな新聞にも様々な州や都市でゼロ・トレランスの見直しが始まったとありました。アメリカでは萎みつつあるものを、日本では強化していこうとしているのです。 子どもたちから出来事を奪ってきた「対応」 これまでのいじめ対応は、いじめた側を叱責し、いじめられた側には心のケアをし、いじめた子に謝らせて、いじめられた子に赦しを強要するというやり方です。マスコミでは加害児や家族、学校へ情緒的なバッシングがなされ、冷静な分析が欠け、今後に繋がる論議になっていません。 一番大きな問題は、子ども同士の中で起きていることなのに、子どもの手から問題が奪われ、分断され、別々に対応されることです。子どもは何も出来ないという発想で、出来事を奪ってしまう。子どもからすれば、自分と関係ないところでおとなが決めたことを受 け止められず、解決に繋がりません。 子どもたちの言い分を聞くことが第一です。当事者が一番よく分かっている。分かっているからいつも正しい判断ができるかどうかは別の問題で、サポートが必要になってくるわけですが、当事者抜きで有効な対策はあり得ません。子ども自身が解決のプロセスに参加するために声を上げる場を保障し、当事者同士の対話が可能性として想定されることが必要です。そのために、制度的なアプローチや実行する存在が必要になってくると思います。 今、「心のケア」が流行っていて、心が全てかのようですが、子どもには心以外に家庭や学校、地域、友達関係など様々な生活があります。その中での継続的なサポートが不可欠であり、その一つの方法として、わたしは学校現場へのスクールソーシャルワーカーの導入を模索してきました。 また、いじめや攻撃行動をした子どもは、そこに至るまでの何らかの被害体験があるわけで、そこに対する共感的な理解が必要です。人のことを大切にしなさいとメッセージを発するなら、その子のことを大切にし、大切にされた体験を確実に持てるようにして初めて、反省の意識化が可能となります。 更に、いじめの場合、当事者の関係だけではありません。友達や家族、地域、多数の人間から分断されたまま放置されるとすれば、生きづらさが高まります。いったん損なわれた関係でも修復し、再構築していけることが課題であり、修復するためには当事者だけでは難しいので仲介者が必要になる。そこで「修復的対話(Restorative Justice 略してRJ)」という考え・実践についてお話します。 関係ある人たちが参加し模索するプロセス RJとは「個人あるいは集団が、受けた傷を癒し、事態を望ましい状態に戻すために、問題に関係がある人たちが参加し、損害やニーズ、および責任と義務を全員で明らかにすると同時に、今後の展望を模索する過程」です。修復的司法とも言われます。 問題に関係がある人たちが参加」ということに大きな意味があり、いじめの場合、いじめた子といじめられた子だけではなく、いじめた子の友達、いじめられた子の友達、親、担任など、影響を受けた人が参加し、全員で話し合って責任や義務を模索し、合意を見出していこうとするプロセスです。 そのプロセスの中で大事にされているのが、話し合いに参加する人たちへの敬意をベースにすることです。基本的ルールが 4つ、「お互いを尊重する」「相手の話をよく聞く」「相手を非難しない」「発言しなくてもいい」。いじめられた子がいじめた子に敬意を持たなくてはいけないというのは難しいかもしれません。しかし、これは譲れないところです。どう敬意を形成できるかが重要になります。 伝統的トラブル解決法として存在してきた 修復的対話は、伝統的社会におけるトラブル解決法として世界各地にあったものです。アメリカのナバホ族は自治政府を持ち、通常の近代刑事司法手続の他に、ピース・メイキング・コート(平和をつくる法廷)があります。トラブルがあったときに持ち込んで話し合いによって問題解決していく。ネイティブアメリカンの人たちが伝統的にやっていた方法です。ハワイではホ・オポノポノといって、地域や家族に何かあったときは平和的に話をします。ニュージーランドのマオリ族もトラブルにあたって平和的に話し合いをする。マオリ族は、どんなに酷いことをした人であっても、対話において一人の人間として尊重されるという言い伝えがあります。 アフリカではウブントといわれ、人を尊重し対話することで解決をはかっています。アパルトヘイトが廃止されたときに真実和解委員会が作られ、対話によって事後処理をしていったわけですが、ウブントがベースになっています。東ティモールやチリ、ボリビアなど各地の民族紛争の後の対応として、対話を取り入れたやり方で成果を挙げています。 司法、学校現場における修復的対話の再生 この伝統的トラブル解決法が、近代刑事司法において再生してきました。1974年、カナダのオンタリオ州で、22件に及ぶ器物破損行為をした 2人の若者に、今まで通りの審判では繰り返しになるだけだと限界を覚えた保護観察官がいました。地域の人たちと話し 合い、加害少年が被害者に直接謝罪に行った。すると、少年は再犯を繰り返すことはなくなり、謝罪を受けた側も精神的に安堵したということがありました。それによって一挙に広がり、アメリカにも広がっていきました。 ニュージーランドでは、「児童少年および家族法」があり、犯罪少年は対話に参加するように規定されています。マオリ族のもともとの伝統的なやり方を取り入れ、法律として制定されました。 やり方は FGC(Family Group Conference)と言って、世界各地の司法分野で導入が広がっており、アメリカは法律を学ぶ人たちは全て修復的司法のことは学ぶというところまで来ています。 学校現場では、ただ処分や退学をさせるだけの生徒指導の限界を感じ、90年代半ばにアメリカ・ミネソタ州の教育局が学校で取り組み始めました。カナダで2000年、ニュージーランドで 1999年、オーストラリアで 1994年、イギリスで 2002年というように取り入れられていきました。日本にいると、アメリカはゼロ・トレランス一色のように感じますが、並行してこのような流れが進んできているわけです。 イギリスでは警察が取り入れています。最初は違和感を覚えたのですが、警察官自身が従来の懲罰的対応に限界を感じて対話を試みたということです。日本でも 5、6 年前、警察庁が「少年対話会」として取り入れたことがあります。参加した人たちの評価はアンケートを見てもよかった。けれど、修復的対話に反対する人たちの声が大きく、トーンダウンしています。 神奈川県のある市では、教育長が来年度、重点的に授業としてやるとし、前段階として、生徒指導主任や教務主任への講義とロールプレーを行っています。 生徒指導の考え方と違うため、しらけるだろうかと思っていたのですが、あまり抵抗がないようです。学校現場で手詰まり感がある中で、あながち否定もできなかったり、先生自身がやってこられていることと重なるところがあるのだろうと思います。 日常的に、相手を尊重する訓練を重ねる 修復的対話の実践として、日常の、学校や地域、様々なところで、修復的な関係をつくることが大事だと思います。人の話をよく聞く、相手を尊重するという訓練を日常的に重ねることが平和的な環境をつくることに繋がるし、トラブルがあったときにも話し合いがしやすくなります。 オーストラリア・シドニーの幼稚園では、子どもたち10数人でサークルになって毎日話し合いをしていました。アメリカ・ウィスコンシン州の中学校でも、毎朝20 分、全校生徒が 12 人ずつに分かれて話し合う。見学をしたときは 9月の年度初めだったので、子どもたちはかったるそうにしていて話が出てきませんでした。 年度初めはだいたいこんなもので、そのうちどんどん話し合うようになっていくということでした。日本人よりよく喋るであろうアメリカでも同じ。話し合いをする場を重ねていく成果だと思います。 教師も最初は違和感があったようですが、子どもたち自身が力を持っているということが分かって、結果的に非常に楽になったと言っていました。 ゆっくり解決する~対立的構造から対話へ トラブルがあった場合に修復的対話を実践する場合、仲介者・ファシリテーターによる事前準備がとても大切です。加害・被害があるとき、二次的な被害が絶対に起きないようにしなければいけません。また、加害者に対する糾弾が起これば逆効果となります。いきなり話し合うことは無理で、どういう出来事や背景があり、この人はどういう人で、こちらの人はどういう人で…と、よく把握する必要があります。ファシリテーターと話をする人たちの信頼関係を作る意味でも、とにかく準備が大切です。 また、自主的な参加が前提で、参加の強制はしません。話し合いをした方がいい、意味があるだろうと思っても、本人が望まなければ成立しません。 対話の段階では参加に対する謝辞をファシリテーターが述べることで、それぞれ自分がその場で尊重されているという意識もつことができます。そして前述した 4 つのルールをきちんと説明します。 全員の発言機会を保障するため、それを持っている人だけが喋ることができるというトーキングピースを使うこともあります。普段全く喋らない人がこれを持つと喋る、という経験が結構あります。 対話することの意義は、被害を受けた側が被害を語り、聞かれることによる癒しや、謝罪があれば怒りを低減するということがあります。加害の側には、自分がやったことの影響を知ることは大きな意味を持ちます。そして、起きたことに対して、事態を適正化するために関係者が協力する。やったことへの責任は問われるけれど、人間として否定されないことで、関係の再構築に繋がります。地域の中で排除されない、絶えず恐れながら暮らすのではないという安堵感が生まれたり、ここで終わりじゃない、先があるということを見出すことが出来ます。 そして、どういうことを話し合って合意したのか、合意事項を確認し、合意書を作成します。合意を形成していくなかで謝罪や赦しが起きることもありますが、起きなかったとしても話し合いをしたことに十分意味がある場合が多く、謝罪や赦しを目指すことは考えない方がいいと思います。和解までいくこともありますし、「わたしの前に現れない」というようなこともありますし、合意は本当に多様です。 協力に対する謝辞を必ず述べ、対話を終えます。 その後、簡単な食べ物や飲み物を用意する。平和的に話し合いがなされていても緊張感がありますから、終わったときホッとする時間を持ちます。 その後のフォローアップも大切で、合意が守られているか見守る必要がありますし、守られていなければサポートが必要で、合意事項がそぐわない場合は話し合って取り下げることも必要になります。もう一度話し合いをした方がいいこともあります。 修復的対話は参加した人の評価が高く、満足度が90%を超えることも多くあります。自主的な参加が前提だからとも言えると思いますが、それにしても満足度が高く、効果がある。ただ、時間と手間を要することです。早いことが大事にされる社会の中にあって、一人ひとりの参加や発言が保障されるには時間がかかります。効率的ではないと、受け入れに抵抗がある場合も考えられます。しかし、修復的対話のプロセスから、何でも早期解決で済ませるのではなく、ゆっくり解決することの意味が実感されていく。その中で、対立の構造から対話へ、非難から関係修復へと、わたしたちのパラダイム転換が起こっていくのではないかと考えています。 検察官をキーパーソンとした「新しい秩序」形成過程の中での少年法「改正」問題 佐々木光明さん(神戸学院大学教授・刑事法/少年法) コンフリクトを事件化してきた近現代刑事司法 山下さんのお話を伺いながら、ノルウェーの犯罪学者ニルス・クリスティーが著書『人が人を裁くとき』の中で、他者を非難し、攻撃し、訴追していくよりも、事件やトラブル、対立などの「コンフリクト」を生んだ背景をみんなで共有化していこうという制度的な提案をしていることを思い出しました。また、ニルス・クリスティーは、近現代の資本主義世界では、様々なコンフリクトを「事件」化し、その解決のために司法という制度を作り、解決する人材として法律家を生み出してきたと指摘しています。問題解決のためにシステムとして最も先鋭化し進んできたのが司法であり、問題解決のためには、問題を争点化し、争いを生み出した者の責任を明確化しようとしてきたのです。民事・刑事ともに、責任をはっきりさせるシステムを強化するかたちで進めてきたし、特に刑事司法において、また 21 世紀において、その傾向はより強くなってきています。 「おとなと子どもの違い」より「分かりやすさ」 今回の少年法「改正」案の刑の引き上げは、不定期刑の幅が小さすぎて、重い処罰を与えたいと考えると無期刑になってしまうため、その中間の制裁の幅を作っておこうというもので、制裁の仕方について分かりやすさを求めた議論です。ここでは、子どもはおとなと違う存在であるという土台が抜け落ちています。 さらに、検察官関与と付添人の拡大が「改正」案に盛り込まれています。弁護士がつくなら検察官がつくべきという議論ですが、これは刑事裁判の構図です。本来、子どもの審判は違うにもかかわらず、10数年の大きな「改正」の流れの中で刑事裁判化が進み、おとなと同じように責任を明確化し、制裁を分かりやすくしろという中で、検察官がいたほうが分かりやすく、責任・制裁も追及できるという議論がまことしやかに語られ、疑問に思われなくなってきています。 「公益及び公の秩序」を守る検察官 いま、検察改革が積極的に行われています。法制審議会では、おとり捜査や盗聴、様々な新しい捜査手法が議論されていますが、これは、社会の新しい秩序形成には必要な手法であるという前提に立っています。そして、捜査のトップ、新しい秩序をつくるキーパーソンとして、検察官が位置づけられています。 犯罪に関わる事柄だけではありません。自民党の「日本国憲法改正草案」には「公益及び公の秩序」のためには基本的人権を制約できるとありますが、公益を守る者は誰か? 最もはっきりしているのは検察官です。検察庁法も、公益の代表者としています。 そもそも「秩序」には、人間・人権の尊重という前提が不可欠ではないでしょうか。対話によって生み出される他者への信頼の中で、他者を尊重していく修復的対話とは全く逆ベクトルに向かおうとする流れの中で、検察官関与拡大が提起されています。少年司法の問題としてだけではなく、そのような大きな流れの中での少年法「改正」問題であるという意味についても考える必要があると思います。 (文責:子どもと法・21通信編集委員会) |
- 子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会 (子どもと法21) - | |||